2010年11月30日火曜日

企業システムの比較と資料の一括請求

企業システムの比較と資料の一括請求
広告に間違いないが、情報集約と簡単な比較できるところはいい
http://it-trend.jp/

マーケティング関連の情報サイト

日経ネットマーケティングはいいサイトだが、最近は有料サイトになってしまって、ちょっと痛い。
まぁ、有料のほどかちがあるからかなぁ。
マーケティングベースだが、ネットとトレンドなど新鮮な要素を取り入れてるから、フレッシュな刺激だ。
http://business.nikkeibp.co.jp/nmg/premium/index.html

モバイルマーケティングニュース
http://www.mmnews.jp/

ベンチャーナウ
マーケティングではないが、色々と刺激になる情報がある。
http://www.venturenow.jp/

東京IT新聞の「明日使えるマーケティング」
マーケティング専門紙ではないが、少し新しい考え方を取り入れてるため、参考になる。
http://www.tokyoitshinbun.jp/news/entry/2449

知庫百科
中国語がメインだが、なかなかこのようなMBA知識を集約するところがない
http://wiki.mbalib.com/


Oracle over Amazon EC2 and S3の情報収集

http://www.oracle.com/technology/global/jp/pub/jp/seminar/mensah.html

クラウド環境でオラクル製品を利用する企業が利用できるサービスへと歩み出したオラクルのクラウド戦略

オラクル・コーポレーション
クアッシ・メンサー

「クラウド・コンピューティング」や「ユーティリティ・コンピューティング」という言葉が注目を集めています。オラクルは、Amazon.comの クラウド・コンピューティング環境でオラクル製品を利用できるサービスを提供しています。このサービスでは、サインアップするだけですぐにサーバーリソースを入手し、簡単にセットアップ済みのオラクル製品の環境を利用することができます。
Oracle OpenWorld Tokyoでは、オラクル・コーポレーション(米国)のクアッシ・メンサーがクラウド・コンピューティングのメリットについて解説し、オラクルが新たに提供するクラウド対応のサービスを紹介しました。さらに、クラウド・コンピューティングの普及に向けたオラクルのさまざまな取組みについても触れています。


コスト削減、迅速なサービス展開が可能なクラウド・コンピューティング


 http://www.oracle.com/technology/global/jp/pub/jp/seminar/images/mensah_prof.jpgメンサーはまず、クラウド・コンピューティングの概念を電気にたとえて説明しました。通常の家庭では、家のなかに発電機はなく、発電所から送られてくる電気を使っています。同様に、インターネット上(クラウド)のサーバーを利用し、使った分だけ利用料を支払うのがクラウド・コンピューティングです。その利点としては、サーバーリソースを使用した分だけ課金されるため、コストを削減できること、IT部門との調整をしなくとも迅速に開発者がセルフサービスでプロビジョニングできること、柔軟なスケールアップ、スケールダウンができることが挙げられます。

クラウド・コンピューティングは、現段階ではまだミッションクリティカルなシステムでの利用は少なく、その多くは開発者が実験的なプロジェクトで使っているというのが現状でしょう。しかし、オラクルは、企業がより本格的にクラウド・コンピューティングを活用できる環境の実現を目指しています。そのために、適切な製品とサービスのセットを提供し、標準規格を定めてデータセキュリティなどを実現していく必要があると認識しています。

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わずか数分でOracle Database環境を構築できるAmazon EC2サービス


http://aws.amazon.com/ec2/オラクルの重要なパートナーであるAmazon.comは、「Amazon Web Services(AWS)」というサービスを提供しています。現在、米国と欧州にデータセンターを設置してサービス提供されており、日本からもサービスを利用できます。また、将来的にはデータセンターを日本に設置するという予定もあるようです。

AWSは、高速、簡単、低コストでクラウド上のサーバーやストレージを利用できるサービスです。「Amazon Elastic ComputeCloud(EC2)」という仮想サーバーは、1時間あたり10〜80セントという安価で利用できます。ストレージのレンタルサービスである「Amazon Simple Storage Service(S3)」というサービスもあり、こちらは1GBごとに月額15セント(米国のデータセンターを利用する場合)もしくは18セント(欧州のデータセンター利用の場合)です。さらに、通信に必要な帯域幅コスト(1GB単位)が受信10セント、送信10〜17セントかかります。

Amazon EC2には小規模から超大規模インスタンスまでの5種類のスペックの仮想サーバーが用意され、目的に応じて利用できます。管理者アクセスにはSSHを使用し、ファイアウォールやネットワークポート設定の構成機能など、セキュリティ面も充実しています。利用上の注意点としては、Amazon EC2のストレージは一時的なものであるため、インスタンスを停止すると全データを解放してしまいます。そのため、データベース用のストレージとしては「Amazon ElasticBlock Storage」というオプションを利用します。

 図1 例 Linux仮想サーバーのレンタルの場合(2009年4月時点)
図1 例 Linux仮想サーバーのレンタルの場合(2009年4月時点)

Amazon EC2には、事前設定されたAmazon Machine Image(AMI)と呼ばれる仮想マシンイメージとしてOracle Databaseのほか、「Oracle Enterprise Linux」「Oracle ApplicationExpress(Oracle APEX)」のイメージが提供されています。これらを利用すれば、数分〜数十分でセットアップ済みのオラクル製品を使い始めることができます。オラクルは今後、さらに多くの製品についてAMIを提供する予定です。もちろん、セットアップ済みのAMIを使用しなくても、空のマシンイメージに手動でOSやオラクル製品をインストールし、利用することもできます。ただし、現状ではAmazon EC2がクラスタに対応していないため、「Oracle RealApplication Clusters(Oracle RAC)」は利用できません。

セッションでは、実際にメンサーがAWSにアクセスしてAmazon EC2のインスタンスをレンタルし、リストボックスから必要なAMIを選ぶだけで、わずか数分でセットアップが完了するデモを紹介しました。

Amazon EC2とOracle Databaseの機能を組み合わせることで、新たなシステム環境の可能性が広がります。たとえば、「Oracle Data Guard」を利用して欧州と米国にバックアップサイトを構築すれば、ディザスタリカバリ環境として利用でき、ビジネスの継続性を高められます。また、新しいアプリケーションを本番環境に展開する前のテスト環境としても使えるでしょう。クラウド上にデータを置くのがセキュリティ上心配な場合は、OracleDatabaseのTransparent Data Encryption機能を使えば、ストレージ上のデータを暗号化できます。さらに、ネットワーク上を流れているデータの暗号化や、Virtual Private Database機能によるユーザー単位での閲覧可能なデータの制限など、セキュリティ対策の豊富な機能を活用できます。

AWSやオラクルのクラウド・コンピューティング戦略に関する情報は、Oracle Technology Network(OTN)の「Cloud Computing Center」から入手できます。

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Amazon EC2の活用で"本業"に専念できたハーバード大学医学部


次にメンサーは、「Oracle DatabaseとLinuxのサーバー環境を最短8分で構築できた」というAWSユーザーからの言葉に加え、ハーバード大学医学部のAWS利用事例を紹介しています。同大学では、臨床や医薬品の効果をシミュレーションするシステムの構築にあたり、開発期間が短い、必要なリソースが予測できず予算も限られている、技術および管理上の複雑さをできるだけ抑えたい、といった課題を抱えていました。そこで、オラクルのAmazon EC2ベータプログラムに参加し、Amazon EC2の環境を使って開発することで、アプリケーション全体を4週間で構築することに成功したのです。同大学のPeter Tonellato博士は「オラクルとAWSを組み合わせることで、(そのほかの技術ではなく)シミュレーションの開発に時間とエネルギーを集中させることができた。そのため、研究の成果を迅速に得ることができた」とのコメントを寄せています。

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クラウド上でのアプリケーション開発に対応、Oracle APEX


「オラクルのクラウド・コンピューティング戦略は、まずオラクル製品をクラウド上で使えるようにすることだった。次のステップは、クラウド向けの製品を開発し、クラウド上でサービスを展開すること」と話すメンサーは、Oracle APEXのWebサイトにアクセスしてデモをおこないました。Oracle APEXのWebサイトは、オラクル自身が運営する、クラウド上のデータベース・アプリケーションの開発環境です。特別な開発ツールは必要なく、ブラウザ上のマウスクリックだけでデータベース・アプリケーションを開発できます。Oracle APEXのWebサイトで開発したアプリケーションは、ニーズに応じて、社内サーバーもしくはAmazon EC2などのクラウド環境にセットアップしたOracle APEXへインポートできるので、開発作業はOracle APEXのWebサイトでおこない、運用は社内サーバーでという柔軟な対応も可能です。

図2 apex.oracle.com
図2 apex.oracle.com

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Amazon S3を利用したバックアップでコスト削減


続いてメンサーは、AWSのもう1つのサービスであるAmazon S3とオラクルのソリューションについて紹介しました。Amazon S3は前述のようにファイルの保存サービスで、バックアップ、イメージ、仮想マシンのスナップショットなどの保存に利用できます。オラクルは「Oracle Recovery Manager(Oracle RMAN)」とAmazon S3を連携させる「Oracle Secure Backup CloudModule」を提供しており、これによりデータベースのバックアップをAmazon S3上に保存することができます。クラウド上にバックアップがあれば、物理的なメディアの保管場所を気にすることなく、常時アクセスが可能で緊急時にも迅速にリストアできます。信頼性の高いAmazon S3にバックアップデータを保存できる点も安心です。また、安価なサービスなのでバックアップメディアやサポートのコストなどを抑えることができ、優れた費用対効果が得られます。

 図3 クラウド環境でのオフサイト・バックアップ
図3 クラウド環境でのオフサイト・バックアップ

オラクルとしては、Amazon S3へのOracle Databaseのバックアップの利便性を向上させるため、今後も継続的に開発を進める予定です。たとえば、クラウド環境に保存したバックアップの履歴情報や利用料金の請求金額などを管理できるレポートサイトを作成したり、自動的な定期バックアップの検証とリストアのテスト、増分バックアップとフルバックアップの自動マージ、ファイルシステムのバックアップをサポートしたりを予定しています。

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プライベート・クラウドの構築によりさらなる普及を目指す


オラクルのクラウド・コンピューティング戦略の第3ステップは、企業やベンダーが独自のクラウド環境を迅速に構築できるよう、クラウド・フレームワークを提供することです。インターネット上のクラウドに自社のデータを置きたくない企業も、自社専用のクラウドであれば安心して利用でき、IT部門が社内のニーズに迅速かつ低コストで対応可能となります。

オラクルのサーバー仮想化技術であるOracle VMを中心に、Oracle RAC、Oracle Automatic Storage Management、Oracle Enterprise Manager Grid Controlなどのさまざまなグリッド技術を組み合わせることで、柔軟な制御とセキュリティ、プライバシーを両立させたプライベート・クラウドの構築を可能にします。

また、オラクル製品の製品ダウンロードサイト(Oracle E-Delivery)でも、Amazon EC2におけるAMIと同様の、Siebel CRMやOracle Databaseが事前セットアップ済みの仮想マシンイメージ(VMテンプレート)の出荷を開始しています。これにより、Oracle VM上へ迅速にアプリケーション環境を配置、展開することができます。

このように、オラクルのクラウド・コンピューティング戦略は、Amazon EC2でのオラクル製品の利用に始まり、オラクル自らがホスティングするアプリケーション開発環境(Oracle APEX)、プライベート・クラウド構築のためのフレームワークなど多くの選択肢を提供し、企業がクラウド・コンピューティングの潮流に柔軟に対応するための技術とソリューションを提供することにあります。

2010年11月29日月曜日

日本文化再发现: 中日为何交恶? 拥抱战败

日本文化再发现: 中日为何交恶? 拥抱战败

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南方人物周刊    2010-11-28 19:11:27    
       
  对中国而言,日本是一个貌似熟悉的邻居,关于日本的话题占据了中国人涉外言论的相当部分,而另一方面,民间对日本的真实的了解可能并不全面与深入。对这个熟悉的陌生人,我们最好的态度是,从了解开始。

  一个中国人到日本的感觉与到欧美的感觉是不同的,你没有明显"异邦"感,大家相貌相似,文字相近,礼节相仿,这一切,都奠定了一个亲切的基调;然后,你不停地遇到和气友善、周到细致的日本民众,你不停地感受这个国家的干净整洁、秩序效率、安全稳定、繁荣富庶、现代先进,最后,你突然会问,对这样一个国家,我们为什么会交恶?

  正如我的一位朋友所说,一个普通的中国人如果到了日本,对日本的好感通常都会有所提升。她说这句话的前提是,大部分国人对日本缺乏好感。这一点得到了一个民意调查的证实,日本《读卖新闻》和中国《瞭望东方周刊》去年年底进行的一项日中联合舆论调查结果显示,在中国,关于日本是否值得信赖,34%的人持肯定态度,63%的人持否定态度(日本关于"中国是否值得信赖"的问题,28%的人持肯定态度,69%的人持否定态度)。


  中日两国国民相互间的恶感既有历史原因也有现实原因,既有国家利益的纷争,也有价值理念的冲突。近代史上日本对中国的多次侵略,以及日本对待历史问题的含糊其辞是一个重要原因;现实中,中国近年来的经济崛起和咄咄逼人姿态给日本以强大压力,再加上两国间存在的领土争议、毒饺子事件等,两国国民间的不信任日益加深。

  你也很难说,这种相互间恶感的消除是"不能",还是"不想",比如,就战争问题,日本抱怨,他们已经多次在不同场合道过歉,但却始终不能令包括中国在内的邻居满意,而在中国,则经常性地批评日本对战争罪行没有深刻反思。

  如果放开历史的视界,中日两族交往数千年,交恶的历史不过集中在最近百年。古代日本从中国学习了大量的政治、文化与科技生产知识,这些来自中国的知识已构成了日本民族性的一部分;而近代中国虽饱受日本欺辱,但容易被人忽视的另一面是,中国的思想与社会的现代化进程,也从先行一步的日本那里获益颇多。据语言学家研究统计,现代汉语中的科学名词70%来自日本,其中如"科学"、"民主"、"哲学"、"物理"、 "教育"、"社会",还有我们经常挂在嘴上的"先进"、"文化"、"代表","经济"、"科学"、"商业"、"干部"、"健康"、"社会主义"、"资本主义"、"法律"、"共和"、"美学"、"文学"、"美术"、"抽象"等等,均不例外。这些词汇都是明治时代日本学者在翻译西方科学著作时用汉字组装而成的,后来由留日学生舶回中国。如今,它们早已化作我们的思维血肉,一旦从记忆中枢消除,我们恐怕就会"失语"。

  在现代学科体系的建设上,日本比中国先向西方学习一步,为中国充当了一个中介。而就在日本在近代史上对中国已经确立优势后,一部分日本精英还曾考虑过日本从文化上反哺报恩中国的问题,因为日本古代从中国所获非常之多。

  昔日的学生已变成了老师。1895年3月,在甲午战争中败局已定的清廷派李鸿章前去与日本亲王伊藤博文谈判。3月20日的会谈记录表明,李鸿章提出,中国与日本"应力维亚洲大局,永结和好,庶我亚洲黄种之民不为欧洲白种之民所侵蚀"。伊藤博文问及中国现代化进程为何如此缓慢:"十年前我在天津时,已与中堂谈及,何至今无变更?本大臣深为抱歉。"李鸿章无法圆满地回答这个问题,其实,昏馈而腐败的清廷完全不了解被他们鄙视的"倭人"、"蕞尔小国"的励精图治。伊藤博文还是一名年轻武士时,曾经纡尊降贵地在一艘开往伦敦的英国船只的船桅前找了个铺位,他在伦敦了解了西方的语言和风俗。

  对于同一阶层的中国人来说,伊藤的举动是不可思议的,它充分说明为什么日本比中国更好地适应了环境。到1895年,日本的法治进程取得了巨大成就,英国自愿废除了早先条约规定的治外法权。直到35年之后,同样的事情才在中国发生。

  在仇恨之外,这个国家有太多值得中国学习的东西,从历史到现实都是如此。

  距离二战结束六十多年后,中国担心民族主义的复苏让日本重回右翼、扩张、军国主义的老路,即二战前的日本,而日本一些精英人士也担心现在的中国变成那时的日本,这听起来像个笑话。不过,一些日本人给出的理由却让人笑不起来,二战前的日本,经济和社会的现代化取得了相当的成就,民族自信心高度膨胀,而皇权与军人干政却日益形成了一个政治上独裁的体制,经济上富裕而政治上独裁的国家是最让人害怕的……

  兼听则明。

  你的问题归你的,我的问题归我的,出了问题,大家都应该晾晾。

  2004年雅典奥运会上,当刘翔在110米栏获得冠军时,从事电视转播的日本记者跑到中国记者席来道贺,对他们而言,刘翔的胜利不仅仅是中国的胜利,也是黄种人的胜利,打破了黄种人在短跑项目上难有所作为的神话。

  强调种族意识,不管是有意还是无意,在今天都有政治上不正确的危险,但是台湾一位知名历史学家却点破了一个客观存在的现象,即一个族群里的人越是受了较高的教育,越是精英,他的种族识别意识其实是越强的,这种识别意识不一定导向种族歧视,对这些精英而言,它更倾向于证明自己所在这个种族能否为人类文明作出更多的贡献。

  对中华民族漫长的历史而言,日本民族始终是一个伴随在左右的邻居和参照系,这两个民族之间的相互学习、和平友好和战争伤害,有相当部分都进入了彼此的民族记忆。现今世界上,很难找出两个国家人种(可能有着共同的远祖),地理与文化传统如此接近,心理距离却如此之远的例子。目睹小国林立(从人口与面积而言)的欧洲在政治经济一体化道路上愈行愈健,有着相似文化传统的东亚数国却因为政治制度、意识形态、历史纠葛等原因(其实,这些问题欧洲何尝没有过)在一体化整合道路上遥遥无期,不禁让人慨叹,这是东亚的悲哀,东亚人的悲哀,东亚智慧的悲哀。

  然后你同样会慨叹另一个事实,美国人与日本人在二战中打得不可开交,双方死伤重大(太平洋战争的惨烈丝毫不逊中日战争),还有两颗原子弹之痛,但一俟战争结束,美国就在清算罪恶的同时推动和解进程,其中固然有国际情势变更后国家利益之故,但你亦很难说这与心胸没有一点关系。

  对中国而言,日本是一个貌似熟悉的邻居,关于日本的话题占据了中国人涉外言论的相当部分,而另一方面,民间对日本的真实的了解可能并不全面与深入。对这个熟悉的陌生人,我们最好的态度是,从了解开始。

  太阳照常升起

  日本社会虽然面临很多问题,却仍旧保持着它的决心、创造力和活力。今天的日本,就像一个困惑的巨人。而从最困惑、最黑暗的日子里寻出新生的源泉,在这个国家古已有之

  拥抱战败

  8 月底的东京还被桑拿天笼罩着,稍微动一动便是满头大汗,却有人要在周二中午12点半开始一场游行。日比谷公园门口的树荫下,聚集了百余人,老中青都有,举着橙色的标语,正在练习整齐地喊口号,他们抗议的是一种治疗癌症的药剂,这种药因为副作用大,在欧美已被禁止使用或者部分禁止使用,却仍然在日本销售。

  这座建于1903年的公园是日本最早的西式园林,地处日本的心脏地带——东临银座,北倚天皇官邸皇居外苑,西边则是政治中枢霞关,游行者正是要一路向西,把国家权力机关"骚扰"一遍。

  65 年前,这里是东京少有的未被轰炸的地区,在一片焦土的包围中,美军在附近建立了总司令部,数量庞大的美国大兵把这里变成一个"小美国"。街头上跑着吉普车和各式美国舶来的新式轿车,美国军警和日本警察共同指挥交通,日本警察总是跟在美国警察之后打信号,而麦克阿瑟将军,则在他办公室里发出各种指令,要把战败的"日本佬"塑造为美式民主的上好样板。

  1945年10月4日,《一九二五年治安维持法》被废除,关于集会和讲演的限制松动了,"思想警察"也被取消,11月起,盟军最高司令部开始强行解散垄断财阀,与此同时,农村的土地改革也开始了。此后的两年,改革继续扩展,妇女有了参政权,教育体制也得以刷新,一本典型的小学课本《少年少女民主读本》这样告诉数百万学生:"同盟国正尽力使日本早日实现民主,并且重回世界的怀抱。然而,即便没有同盟国的说法,如果我们看看人类的历史,成为民主主义的国家、民主主义的国民,也是人们真正应该走的道路。"而在学校外面,穿着补丁裤子的孩子挥舞着纸做的小红旗跑来跑去,他们在玩一种"示威游戏",模仿在各地举行示威的左翼人士,等他们长大以后,这种游戏就变成了实践。

  那位戴着太阳帽,背着双肩包,背有些佝偻的老人,也许童年时就玩过这样的游戏,现在,他站在一群晚辈中间,正在等待警察的口令。四五位警察走到马路中间,拦住往来车辆,一声哨响,游行者从日比谷公园鱼贯而出,"药害"、"患者"、"命"、"诉讼"各色字样在警察的护卫下通过马路,开向霞关。

  今日日本的许多现实,可以从战后的岁月找到缘由。1947年,这个国家接受了一部和平宪法,它宣布日本要建立一个"民有、民治、民享的政府",天皇不再是神,而是国民统一的象征,它还宣称"我们不再发动战争"——若干年后,右翼人士攻击这部宪法,说它令日本"去势";从1946年到1951年,日本迎来了战后第一拨婴儿潮,在这3 年出生的800多万人被称作"团块世代",他们将成为七八十年代日本的"企业战士"和最富有的一代,但进入新世纪后也要被他们不少宅在家里的儿女们啃老,而他们中间的极少数不走运者,则会沦为上野公园、池袋西口公园和新宿车站里的流浪者,每晚在纸箱子里孤独地睡去。

  也并非都是积极的预兆。几十万盟军带来了大量需要释放的荷尔蒙,在一封发给全国警察管区的密电里,内务省指示为占领军特设专用慰安设施,以防外国士兵玷污良家妇女,大藏省一位政坛新星池田勇人在安排政府预算时说:"用一亿日元来守住贞操不算贵!"而7个卖春业团体则宣布,应征者有着"保卫一亿日本人血统之纯洁以护持国体的伟大精神"。这些为国"献身"者被称作"潘潘",她们选择了在欲望上的自甘堕落,而对于后世的观察者来说,"潘潘"预告了即将来到、并绵延至今的日本性商业化潮流。

  教育也不乏矛盾之处,一个中学生后来回忆,美军进驻日本后,被认为最具有军国主义色彩的修身、日本国史和地理三门课中断数月,在文部省赶制新教材期间,他们被要求将自己辛辛苦苦抄写的老课本涂黑,这一经历带给他这样的思考:"接受了的知识可以动摇,教育本身并不是绝对的事情。"

  最大的矛盾在于旧官僚体制的延续。"最初占领日本时美国人是很热心的,"原日本驻印度大使野田先生说,"后来冷战开始,美国希望充分利用日本,便一边改革,一边让1930年代的官僚体制发挥作用。"于是左翼遭到"赤狩",保守势力重整,经济大权也重归中央官僚手中。此后数十年,日本以一种国家资本主义的姿态赶英超德,一跃成为世界第二大经济体,令欧美国家兴奋而又紧张地讨论"日本奇迹"、"日本模式"。但随着1990年代初日本经济泡沫破灭,整个国家陷入停滞无法自拔,保守的官僚体制也成为反思的对象,一个名叫菅直人的人就直言批评说:"日本政策中80%是由官僚制定,只有20%是由民选政治家制定,在我们现行的体制中,一个大臣,包括首相,也没有最终的权力,甚至都不能称之为一个政府。"

  1955年发生了什么?

  1950 年6月25日,朝鲜战争爆发,10月19日,中国志愿军跨过鸭绿江,为祖国而战。整整60年后的今天,中朝两国展开纪念,而实际上,应该纪念这个日子的也许还有日本——5年前,这个为战争而疯狂的国家被强行赐予了"和平"与"民主",而今美国又带给了他们另一样礼物:特需。

  战争"特需"采购为日本带来了约23亿美元,超过1945年到1951年美国援助总额。购买机械制品的订单大量涌入,丰田汽车的产量在短时间内就增加了40%,股市则上涨了80%,较不引入注目的是日本企业对"品质管理"的引入,一个名叫戴明(W.Edwards Deming)的美国统计学家,在本国日益失去听众,却在日本发表了影响深远的演讲。"日本公司的东西,只要是在日本市场卖的,即便是中国制造,我买时也从来不拆装检查,从未出现质量问题,"本田公司一位专注于生产管理的职员说,"这种品质,就可以追溯到戴明。"

  到1952年,曾经在战后 "笋式生活"(人们一层层剥下自己的衣服去卖,以换取食物)中挣扎的日本人第一次感受到了景气——全国小学实现了完全供餐,菜单里有橄榄形面包、脱脂奶粉和龙田炸鲸肉;冰箱和缝纫机得以普及;理光双反相机则带动了战后第一次相机销售高潮。这个国家已经为进入1955年做好了准备。

  1955年发生了什么?

  这一年,为了对抗整合后实力陡增的左翼社会党,自由党和民主党两大保守党派合并成立自由民主党。由于掌握国会多数,自民党自此开启了长达38年的 "一党执政",被称为"1955年体制"。"1955年体制"不仅是政治上的,而且是经济(高速成长)、社会(大众消费)全方位的,对日本影响深远。

  抵达羽田机场是在晚上,买好利木津巴士的车票,沿着提示很容易就到了候车区。开往东京市区不同地点的巴士在这里分成若干个停车点,每个停车点上方的显示屏实时更新,告诉你最新三趟大巴的终点,开往池袋的那班是9:05分。穿制服的工作人员接过你的箱子,把候车者和行李都分成三排,前一趟车开走,第二排的人和行李就顺序前移,地上并没有划线,但所有的行李都排得整整齐齐。我们前一趟车快开走的时候,远远跑来一大家子,工作人员示意司机稍等,然后跑过去帮他们提箱子,这家人一边向其他乘客道歉示意,一边气喘吁吁地上了车。轮到我们时,工作人员不慌不忙地稍稍加快了检票的速度,坐上大巴,系好安全带,电子显示屏上 "开往池袋"的字样刚被替换掉,大巴发动了,9:05分整。许多人就是这样认识了日本,尔后,你会发现,这整个国家其实都在一条看不见但规定好的轨道上运行着。

  1955年日本经济开始长达20年的高速增长,在这个过程中,"团块世代"接过了上一辈人的接力棒,迅速发展出一种规律的生活方式:男人们白天在公司拼命干活,把这里当作自己安身立命的所在,相信"只要对企业好,就是对社会好",晚上到居酒屋和同事领导继续面对面,既是放松,也还是工作。如果你回家早了,家人会觉得奇怪:和公司的人处得不好吗?夜深了,返回西方人眼中"兔子窝"一样的家,贤惠的妻子已经为他们烧好了洗澡水——大多数日本女性那时都是主妇。他们通常有一到两个孩子,习惯了核心家庭而非传统大家庭的生活,他们喜欢富士重工的家庭轿车,热爱安藤百福1958年刚刚发明的鸡味拉面,为了收看平民皇太妃与皇太子的婚礼以及东京奥运会,他们掀起了购买电视的热潮,他们是大众文化的接受者,是日本动漫产业淘到的第一桶金。即便是知识分子也不附庸风雅,一个日本人说,"大学教授或高等法院的法官半夜在酒吧会跟木匠或出租车司机一起唱流行歌曲,这是司空见惯的场面。"

  与之相比,1960年代的学生运动或许只能算得上不大不小的波澜,那些当年走上街头反对美日安保、反对成田机场建设的热血青年,毕业后都成了公司职员。"团块世代"中的一员村上春树后来回忆,"大家认为运动已经结束,继而成为了企业战士,不断发展经济、制造泡沫,然后泡沫破灭一切成空。"

  "1亿总中流"

  1970年3月,就读于早稻田大学的卓南生给新加坡《星洲日报》发回关于日本大阪世博会的报道:"负责'日本馆'的一位官员振振有词地说:'要看原子弹轰炸遗迹的人可以到广岛去看,这儿是属于未来,日本只想向世界夸耀诸如新干线之类的东西……'"

  这位官员的振振有词印证了经济学家森岛通夫的说法:"自明治维新以来,赶上和超过西方国家一直是日本人民最悲壮的愿望。"现在,时机到了,1955 年以后的历届首相都制定了长期的经济计划,这其中最著名的就是当年声称要"用一亿日元来守住贞操"的池田勇人提出的"国民收入倍增计划"。在通产省的强力推动下,纺织、钢铁、机械器具、石油产品、精密仪器的生产高峰接踵而至,一些人开始使用"日本有限公司"来比喻这种政府强硬的产业政策指导下运行的经济体。对于日本人来说,为了重点加强对西欧各国有竞争力的战略产业,就必须将优秀人才集中于这些产业,为了选拔出优秀人才,孩子们就必须参加激烈的竞争,因而学校成了所谓"受验地狱"——这种旧时的印象直到现在还被一些中国人用来自我安慰和解嘲。

  1960年代初,法国总统戴高乐提及池田勇人时还轻蔑地称之为"那个半导体推销员",不出几年法国就被日本超过。到1968年,日本的GDP已超越西德,成为资本主义世界的二号强国,日本制造打遍西方无敌手,连美国媒体也开始担心。1971年5月10日,索尼公司创始人盛田昭夫登上了《时代》封面,标题是"如何应对日本的经济侵略?"

  然而这只是硬币的一面,人们会问另一个问题:有多少人分享了经济起飞的成果?又有多少人被这趟疾驰的新干线列车抛下?

  日本给出的答案是:1亿总中流。从1955年开始,日本社会学界进行全国的"社会分层与流动调查"(SSM调查),到1980年代,有70%的接受调查者认为自己属于中流阶层,而来自日本政府"国民生活舆论调查"的数字则是接近90%。1984年,东京大学教授村上泰亮在他那本著名的《新中间大众的时间》里写道:"就一般趋势而言,蓝领与白领的区别应视为古典资本主义时期的一种惰性,将逐渐失去其存在意义……"

  "主要是税制。"日本一家主流经济报纸的记者认为这很好解释,"日本最大的税源是企业税和个人所得税,有钱人要交很多税,有的要占收入的65%,此外遗产税也很厉害,很多人几乎承受不了……决定税制的是日本很优秀的官僚,他们毕业于名校,有这个理想:日本社会应该是公平、平等的。"

  日本财团会长笹川阳平年轻时交税最高曾达到收入的80%,"那几乎就是拿一个手续费了!收税是调节贫富差距、稳定社会情绪非常重要的手段,我今年77岁了,我死后我的房子就要卖掉交税,不然会有很多麻烦。"

  笹川阳平曾多次造访中国,"我常说,日本是国家财政赤字,但老百姓过得还可以,中国也许正相反吧。当然,邓小平先生的先富论是没有错,但可能他也不会想到现在中国的贫富差距会这么大。今后中国应该把更多的资金投入到社会福利方面,包括医疗、食品安全等等,这才是一个国家真正富裕的标准。"

  日本工会总联合会前代表世森清从劳动者的角度给出了另一种解释:从1955年开始,日本的劳动者开始联合起来,向资方提出涨工资等要求,由于日本的财政年度到 3月31日终结,所以抗争多在樱花开放前的早春,是为"春斗"。"战后日本多有劳资冲突,受到惩罚的都是工人,"世森清说,"1950年前后,日本通过了劳动组合法、劳动基准法、劳动关系调整法等'劳动三法',组织权和罢工权从制度上得到了保障。"

  而通过劳资谈判,双方又通过一个被称为"生产力三原则"的协议:首先,双方同意冲突对彼此无好处,应该坐下来谈,以建立劳资协定;协议制定后,资方可以给劳方一个长期雇佣的承诺;保证利益在经营者、劳动者和消费者间公平分配。对于终身雇佣制、年功序列制、企业内工会这日企的"三神器",索尼的创始人盛田昭夫在《日本可以说不》里说得更漂亮些: "日本的公司是一个命运共同体,就像一个人结了婚,即使生了一个身体有残障的孩子,仍要一辈子照顾他一样,是不能轻易解雇的。而日本的员工,由于了解所谓的命运共同体,因此,为了将来,'现在'可以忍耐。当公司方面若提出为了将来,想将盈余转增资,或投资于设备时,工会组织不会无理取闹,而有和解、妥协的余地。"

  在日本采访期间,我们好几次听到这样的话,"日本人对贫富差距的容忍度极低",而常被拿来的例子是,日本最穷的冲绳,人均收入也达到了最富有的东京的一半。

  "买下美国!"

  那时人人都有个日本梦,大量外地青年来到首都,就成了首都人民——日本人的户籍只是他的"原籍",你搬到什么地方,只需要在当地政府的窗口申请"住民票",就能成为当地居民,教育权、医疗权等一样不落。这些新东京人信奉一件事情:只要努力就会有办法,而他们的确也都随着这个国家迈入了成功。

  他们大学时学着本地的年轻人留长发、穿喇叭裤,在新宿的街头高唱反战歌曲,呼吁爱与和平;毕业后挤山手线上班,拼命挣钱拼命存钱,偶尔去浅草的脱衣舞剧场看一个叫北野武的同龄人表演喜剧;后来他们买了车,又在郊区买了房,再听到《北国之春》时,忍不住也要热泪盈眶——他们也许就来自北部的青森、新泻、长野、岩手……但起码他们还有故乡可供怀念,等到他们孩子这一代在京郊出生、长大,想要"逃离东京"时,已经无路可退了。

  他们赶上了好时候,但也不是没有坏事情。随着工业发展与产业升级,从1950年代后期开始,"公害"开始侵袭日本,最出名的是发生在熊本县水俣湾的水俣病。一家向海湾排放含汞污水的化工厂让一个镇1/4的人口先后患上了"怪病",轻者口齿不清、手脚发抖,重者神经失常乃至全身弯曲而死。1971年,东京发生严重的光化学烟雾污染,熏倒了操场上的小学生,而曾经供应"江户前寿司"原料的东京湾也赤潮泛滥。1973年,厚生省公布了一份菜单,要求民众一星期内食用某种鱼类不要超过指定分量,潜台词是,这样才能降低毒素的累积……

  染野宪治1991年进入日本环境厅(现环境省),负责解决有关公害问题,"日本政府从 1960年代才开始正视公害问题,这源于三方力量的推动:首先是媒体自由的报道;然后是地方政府迫于选民的压力,开始承担属于他们的那部分责任;最后就是独立的司法,如果政府不作为,老百姓可以去走司法途径,当时受害者提起了大量的诉讼。几年前一家中国电视台采访我,我也谈了这三点,他们让我特别强调一下报道自由这部分,说要用来做内参。"

  如今走在东京的街头,已经很难想象那仅仅是三四十年前的事情。天是淡蓝的,位于闹市区的神田川,水是深绿色的,里面游动着巨大的鲤鱼,还有时潜时浮的乌龟,好些天没有下雨了,路边的银杏叶也没有蒙上灰尘。

  1973 年的石油危机结束了日本近20年的经济高速增长,改编自科幻小说《日本沉没》的同名电影在这一年吸引了880万观众,但这并没有影响到整个世界对它的追捧。1979年,哈佛大学傅高义的《日本第一》(Japan as Number One)把"日本热"推向新的高潮,卓南生在为《星洲日报》撰写的社论中说:"日人之所以从十年前被讥为'经济动物',而摇身一变成为今日备受世人推崇的 '借鉴的模式',推究原因,主要还是因为它没有在1973年石油危机中垮下去……令百病丛生的欧美师父相形见绌,惊叹徒弟'功力'不浅……"

  1985 年的"广场协议"永久地改变了日本,直到现在仍有不少日本人把它看作西方世界的一次阴谋。按照协议,美元对主要货币的汇率有秩序地贬值,以解决美国巨额贸易赤字问题。日元由此大幅度升值,工业出口受到冲击。日本政府为了维持经济增长,开始大幅降息,结果使得大量资金流出股市和房市,泡沫经济赫然成形。

  在欧洲,人们惊讶地发现,日本人开始以组团的架势扫荡欧美的奢侈品店——这其中自然有生活在"年功序列制"下的日人对"身份标识"的崇拜,以及趋同的文化心理,但最重要的原因恐怕是,日元升值令日本人的购买力空前强大。在美国,夏威夷的海滩上都是黑头发黄皮肤的日本人,洛克菲勒中心被日本人买走了,哥伦比亚影片公司也被索尼拿下了。有资料说,到1980年代末,全美国10%的不动产已成为日本人的囊中之物,老美们惊呼:"日本人要买下美国了!"一个美国记者受日本外交官宴请,饭后甜点竟然是铺有金箔的巧克力奶油冻,"我私下觉得吞食金属颇不容易,却顿时明白了夸耀性的消费。"

  在日本国内,所有的人都在谈论股票、外汇、房价,东京闹市区几乎每个行人都一身名牌,喝最高级的红酒,然后不管车费多贵也要打车回到郊区的家里。作家新井一二三回忆说, "那几年的日本,简直开着没完没了的嘉年华,或者说是天天过年晚晚过节的全面性疯狂。"甚至大学生都有花不完的钱,前述日本记者 1980年代末尚在读书,"我们当时都认为日本世界第一,生活水平要比美国好,而且只会越来越好,去酒吧的大学生很多,回来的时候都打不到车。"20年后他来到中国,晚上在国际俱乐部附近也经常打不到车,而周围都是些"看起来都很有钱"的年轻人,他觉得这场景真熟悉啊。

  "对了,去京都吧"

  1989 年12月,日经股指冲到了38915点的历史高位,房地产价格也不遑多让——一个经常被引用的对比是,在泡沫经济的最顶峰,东京都的地价超过了全美国地价总和,而卖掉整个加州,甚至只能买下日本皇宫这一小块地皮。这是最后的疯狂,到了1990年,股市暴跌,楼市也开始走低,一些公司倒闭了,一些人破产了,但是人们身处其中,会觉得一切只是暂时的,而不知道,历史正在关闭一扇上升之门。

  美国学者安德鲁·戈登认为,1990年是日本与全球历史的一个断限时间。1989年1月,昭和天皇裕仁去世,此时正是东欧革命的前夕,冷战行将终结,而在冷战中形成的1955年体制也开始出现裂缝——同年7月,自民党在参议院选举中遭受重创,首次失去多数席位。随着泡沫经济的破灭,自民党主导的以折衷与妥协为特征的高度成长政治难以延续,官僚体制、学校与企业的集体主义这些原本支撑着战后日本发展的各种机制也纷纷开始露出破绽。在1993年的众议院选举中,陷入腐败与分裂中的自民党未能获得国会半数议席,沦为在野党,1955年体制在政治上崩溃了。

  两年后,日本的失业率自1955年以来首次突破3%。"凭努力而非凭业绩"在其他国家往往被视作失败者的托辞,但在战后日本,这句话却是一种社会共识,但是1990年代中期以后,盛田昭夫口中的"命运共同体"渐渐不堪重负,"凭努力"也遭到"凭业绩"越来越多的挑战,日本人迫不得已地开始转向一个更加自我负责的社会,被视为日本特色的"终身雇佣制"开始松动。

  我们到达东京第三天,酒店里送来的《国际先驱论坛报》就在头版刊登了一张巨大的新闻照片:商铺打出密密麻麻"完全閉店"的黄底红字,一个白发苍苍的老者低着头从店门口经过。图注写着:日本的内需如此不振,而通缩如常,以至于货币调控对它已经不灵了。而日本四大经济类周刊之一的《钻石周刊》这一期的封面是4个粗黑大字:"解雇解禁",讨论的是在不景气的当下,正社员(正式员工)的铁饭碗也有可能不保的问题。在"解雇解禁"4个字下面,有一道充满裂痕的墙,墙外面,衣着随便的年轻派遣社员 (临时工)有人奋力往上爬着,其他人则举着电钻和斧子,气急败坏地砸墙;墙里面,西装革履的正社员冷汗涔涔,手足无措。

  2010年,在日本经济泡沫破灭的第20年,《纽约时报》试图为它重新画像:"在迄今差不多一代人的时间里,这个国家一直深陷通货紧缩泥沼,不能自拔。在此过程中,这只昔日的经济猛兽已雄风不再,失去了在全球经济中的傲人地位……如今,随着美国和其他西方国家正竭力摆脱债务及其自身的房产泡沫,越来越多的经济学家将日本当下的黯淡处境视为上述国家的未来走向。"

  世森清提供的一份统计资料显示,2008年,日本上班族中年薪在200万日元(约合16万元人民币,一般被认为是四口之家的贫困线)以下的占总数的 23.3%,这个数字比1994年提高了5.6个百分点,与之相对应的是"百元店"的遍地开花,以及优衣库和ZARA这样的低中端品牌的流行,前者几乎占领了东京的每一个大的街区并造就了日本的首富,后者用大前研一的话说,"价格中低阶层,感觉中上阶层"——这样的群体已渐渐成了消费的主力。在周末夜晚的浅草,人们在大排档觥筹交错,不亦乐乎,到了时间,却要立即起身去赶最后一班电车,710日元起步价的出租车,现在对于普通日本人来说太贵了。东京的通勤圈也许仍会扩大,但是一些卫星城却不可避免地衰落了,二十多年前,人们抱着"明天会更好"的坚定信念,在郊区买房买地,以为这里迟早会变得和城区一样,未料到泡沫破灭,卖场倒闭,电车班次减少,一到夜晚几成"鬼城"。

  但日本仍应感到庆幸,在它的经济开始出问题的时候,它已经建立好了一个稳固的制度:法治、财产权和自由的媒体。在它的人民开始变老前,经济繁荣带来的财富已经得到相对平均的分配。《大西洋月刊》的记者James Fallows曾在1980年代的日本住过,今年夏天又和妻子搬回了东京,惊讶地发现了两点变化:"一是我们曾经的邻居都变得更富了,在过去的10年中,整个日本都是如此;二是日本现在比'日本可以说不'的时代大为不同了,更为谨慎,在政治和文化氛围上都更加地'向内看'。"

  许多事情早有预兆,还在1980年代,日本企业的管理层就开始抱怨,那些出生于1960年代以后的年轻人,不愿加班,对假期没有一点"抵抗感"。这些"60后"被媒体称为"新人类",他们性格内向,稚气未脱,自称为"外星人",有自己的语言体系,喜欢用"真的!""不可置信!"这样简单的形容词,他们喜欢阅读漫画,对《朝日杂志》和《世界》这样的严肃刊物感到"困燥"……如今,派遣社员已经占到了日本上班族总数的1/3,这会进一步改变他们的价值观和生活方式,和父辈相比,日本的年轻人或许更"宅"、更"草食",不把工作当作生活,对外面的世界意兴阑珊,但是看一看新宿、池袋街头粉红色的游戏厅里,无数下了班的中老年人玩弹子机时的专注神情,谁又比谁更不寂寞呢?

  东京都知事石原慎太郎不喜欢一个"向内看"的日本,嚷着说这个国家"要完蛋了",而在距离东京数百公里、只有十几万人口的三条市,市长国定勇人却说,在泡沫破灭之前,日本人总想着如何赶超别人,现在却有机会重新审视自己的生活,这未尝不是好事。

  对于日本国民诉求的变化,女作家酒井顺子说得更加明晰:"泡沫崩垮,景观恶化,不管在精神上还是生活上人们都涌起一股清静和寂寥感,此时我们开始注意到自己的立根之处。在泡沫经济的全盛时期跑遍各国、看尽名牌精品,慢慢知道,要在欧美人的地盘跟他们决胜负,是绝对没有胜算的。如果是这样,也许解决办法就是不穿晚礼服而穿和服……于是女性开始舍西洋花艺改学花道,舍西洋草书改学书法,舍精品名牌包改买和服,舍剧团四季去看歌舞伎,舍夏威夷而开始去京都……JR 东海线也用广告鼓吹:'对了,去京都吧。'"

  "我不认为日本在1990年以后是简单的衰退和滞涨,"日本大学商学院教授李克说,一些欧美学者来到日本都感到不解:这个国家是在衰退吗?他们看不到通常意义上的萧条场景,整个东京仍然灯红酒绿,"这20年,不仅是政府和经济的关系在调整,整个日本社会也在进行一场大的调整。"

  "春花秋月杜鹃夏,冬雪皑皑寒意加。"这是道元禅师的一首和歌,题名《本来面目》。日本的本来面目是什么呢?川端康成看到的是美丽的日本,大江健三郎看到的则是暧昧的日本。日本很晚才拥有自己的文字,却在创造出文字后很短的时间里就创造出丰富的文学作品,这个民族似乎习惯了跑步前进,然后迅速地穷尽未来,也耗尽自己,他们如此之快地冲在前面,每个国家都能从日本身上看到自己——你想知道些什么,你就在什么样的日本。

  (参考资料:约翰·W·道尔《拥抱战败》、安德鲁·戈登《日本的起起落落:从德川幕府到现代化》;中村政则《日本战后史》;李培林《重新崛起的日本》;三浦展《下流社会》;卓南生《日本社会》;佐藤俊树《不平等的日本——告别"全民中产"社会》;石原慎太郎、盛田昭夫《日本可以说不》;李御宁《日本人的缩小意识》;艾伦·麦克法兰《日本镜中行》;鹈饲正树等编《战后日本大众文化》;大前研一《M型社会》;山本七平《何为日本人》;酒井顺子《都与京》。特别感谢胡一平女士提供帮助)

  里弄东京

  如果说町会是日本人在世俗层面的结合体的话,那么神社就是把他们真正凝聚起来的更深层的纽带

  东京地势西高东低,江户川、隅田川等大小河流自北自西流来,侵蚀了这个古名武藏野的台地的东缘,形成一个个舌状的小型台地,俗称"山之手"。这些小型台地后来有了一些还算响亮的名字:品川、池袋、新宿、涩谷、代代木……1885年,日本铁道品川线通车,以此为起点,小型台地被环形铁路依次连接起来,这便有了著名的山手线。

  搭黄绿色的山手线电车到秋叶原,换乘总武线向东,到浅草桥时已经进入下町,又依次经过两国站和锦系町站,抵达龟户站,再步行十几分钟便到达龟户三丁目。

  这里的建筑多灰白或淡黄色,几乎没有超过5层的楼房,天空中电线横七竖八,街道狭窄却干净,花花草草从不起眼的角落里冒出来,从铁门的栅栏里伸出来,从楼顶垂落下来,连屋檐下等待回收的啤酒瓶架上也摆满了盆栽植物,有空地处即有树有花,让你不得不慨叹这个民族对美的执着。阳光很足,衣物和被子晾晒在为数众多的临街窗台和露台上,街旁三三两两分布着一些店铺,比如"大井商店"、"梅寿司",随时有人推门而入,或者推门而出。倒是符合雅各布斯在《美国大城市的死与生》里写的"要有一些眼睛盯着街道",因为"街边的楼房具有应付陌生人、确保居民及陌生人安全的任务"。

  龟户三丁目町内会会长佐藤和男的名字就刻在自家门上,这是一栋独门独院的住宅,如今这样的房子在龟户还有20%。日本人家的地址以"区-丁目-番- 号"标识,"町"相当于中国的街、巷,町内会则是居民自治的基本单位,类似于中国城市的居委会。这一天,由江东区政府与江东区龟户町会联合会合办的夏末大会将要举行,龟户中央公园里已经有人开始顶着烈日布置摊位和舞台了。

  "我们三丁目町会有900多户,而我还是整个龟户地区町会联合会的会长,"78岁的佐藤先生说,"町内会最大的作用就是连接行政和居民,如果没有町会,行政的意志就到达不了居民。"

  和几十年前一样,流动留言板仍然是这里的居民获知区内事务的主要途径。除了传达区役所(区政府)的通知,町内会会议、节庆、婚丧嫁娶的消息、各种服务性信息譬如组织郊游、回收废品等,也都由留言板送达。"传阅的顺序是规定好了的,一户看完了盖个章送到下一户,一般一周就能传遍整个社区,要是有紧急通知,3天就可以转完。"

  日本的町会制度形成于20世纪初,二战期间町会被军部控制,成为战争机器终端的螺丝钉。佐藤先生那时正上初中,"我记得当时送子当兵的气氛很浓,町会组织老幼为年轻人送行,妇女们为他们系上腰带,是整整1000针缝上的,据说子弹打不透……当时町会是强制参加的,因为粮食实行配给制,不加入分不到吃的。"

  战后,町会制度一度被美军废除,但后来又以自治组织的形式重新兴起,"战时是特殊时期,现在完全不一样啦!" 佐藤说,町会现在和政府没有关系,会长两年一改选,町会干部由居民轮流担任,全部是义务劳动。居民可以自愿选择是否加入,每户每月的会费是300日元,而租户则是100日元。"我们总是吓唬他们说,你们不加入町会就不能扔垃圾!当然,这是开玩笑,不过日本人喜欢集体,害怕落单,很多町会组织的活动,你不是会员就不太好意思参与,所以入会率还有 90%左右。"

  佐藤先生给记者一份《平成16年度(2004年)收支决算报告书》,里面详细列出了龟户三丁目町会的各项预算和决算,其中收入部分以会费最多,而支出则有31项之多,包括防灾费、夜警费、敬老费、水道光热费等等。

  在每个除夕漆黑的夜里,町会干部会五六个人一队,拿着手电筒或提着灯笼巡视街区。每一支队伍都有一个人脖上挂着铃铛,走几步就敲击一下,而巡视干部则用低沉而悠长的声音提醒着街坊:"小心火烛!"对于老居民来说,这种声音已成为新年氛围的重要成分。

  更为日常的则是防灾,每年八九月间,日本的电视上就开始充斥着各地开展防灾训练的新闻。龟户也不例外,区役所、消防署与町会合作,以漫画的形式对孩子讲授地震、火灾时的应对之策。一个让人感慨的例子是,日本的小学生座椅靠背上都套着个软套,一有地震他们会立即取下软套垫在头上,然后往桌下躲避。

  龟户町会联合会印制了巨幅的防灾地图,里面标出了邻近街区的避难场所、临时集合场所、消防署、医院、防灾仓库等等,从地图里看,街头灭火器、消防栓和防火水槽分布得密密麻麻,几乎几十米就有一个。一旦江东区出现6级以上的地震,町会干部在确保自身及家人安全的前提下,会立刻行动起来,调集"灾害协力队",组织居民疏散到邻近的学校和公园——在日本,学校的建筑通常是最结实的,这些地方平时就备有应急的粮食、水和毛毯等物品。

  整个过程中,区役所通过町会下发的无线防震报警器会发挥重要作用:不但能通知居民躲避地震,而且由于地震往往引起火灾,区役所还能通过掌握风向,告诉居民正确的逃跑方向。

  离佐藤先生家不远处是有着350年历史的龟户天神社。平日里,这里更像一个清静的公园,穿过高高的"鸟居",就进入了"天上",爬上一座红色的拱桥,有乌龟在湖中的岩石上晒太阳,更多的乌龟在争抢游人抛下的面包,龟户本是填海而成,地下水偏咸,乌龟较鱼更能适应。5月时湖周围会开出紫藤花的瀑布,神社也由此入选"新东京百景"。再往前行,便是祭堂。

  一个完整的参拜程序是这样的:在净身处用木瓢取水洗手,并用手捧水漱一漱口,面朝祭堂,将一枚硬币(5日元或者50日元)投入捐赠用的匣子,深鞠躬两次,击掌两次,再次鞠躬并进行几秒钟的祈祷。如果有殿堂铜锣,祈祷时可以轻轻地敲响,神道教认为,这样可以得到神的注意。龟户天神社里供奉的是平安时期的学者菅原道真——有点像中国的文曲星,因此祭堂边祈愿考上某个学校的木牌特别多

  如果说町会是日本人在世俗层面的结合体的话,那么神社就是把他们真正凝聚起来的更深层的纽带。"神社是扎根于日本人内心之中的,很多活动都以神社为中心,从九州到北海道,莫不如此。"佐藤先生说,"在美国,通常是先有人聚居,然后才有教堂,而在日本,是先有神社,然后围绕神社形成社区,所以日本人非常讲究'地缘',相信每一片土地都有自己的保护神,也即'氏神'。比如每年的11月,日本3岁、5岁、7岁的儿童,要在身着和服的父母陪同下,到本地神社求福,氏神会为他们驱除灾厄。"

  "靖国神社不一样,"他又补充解释,"它由国家修建,后来又供奉了甲级战犯,对我们来说,它和我们的出生地没有关系,不是'氏神'。"

  9 月18日,本刊记者第二次拜访龟户地区时,附近一个稍小的神社正在迎来它的节庆。通往神社的道路上挂着一排排红白相间的灯笼,上面写有町会的名字,人们在路旁摆摊,卖着烤鱿鱼、纳豆等,大多数小吃都在100日元以下,"卖得非常便宜,主要由町会出钱补贴,其实就是回馈本地居民。"白岩忠夫说。他是江东区区议会议长,也在帮忙张罗着明天的节庆。

  与其说是摆摊,不如说在闲聊,买者和卖者平时就是街坊,大家都穿着随便,趁着这个机会三五成群地拉拉家常,顺便计划一下明天怎样庆祝,不时迸发出快活的笑声。这是城市里的"村落",却和我们头脑里"城中村"的印象相去甚远,相比于新宿、银座的腰板笔直脚步匆匆,这里无疑是松弛与缓慢的。

  神社的一侧是舞台,第二天会有本地居民的演出,舞台再绕过去有一个小小的靶场,穿得像圣斗士一样的孩子们刚刚散去,作为仪式的一部分,他们可以在这里练习射箭,正中靶心就意味着他们的目标将要实现。神舆停放在路边临时搭建的木台上,明天,町会组织的志愿者们,要抬着它"哇啸哇啸"地巡游邻里——或者说,"氏神"管辖的范围。

  从宗教意义上说,神舆巡游是让守护神视察并降福于所在地区,但日本人早就习惯从这样的仪式中各取所需。忙碌的上班族好容易闲下来,带着孩子看看热闹;主妇们参与准备红豆饭的义务劳动,顺便增进邻里感情;扛着神舆的小伙子们,会试图带着它游行到社区的边界,隐隐有和邻近社区叫板的意味;年长的町会干部们,则希望每一回巡游,都能增进人们对社区和传统的认同。白岩议长在这里碰到了另一位老人,他是总武线龟户站附近一个町会的会长。和三丁目相比,龟户站周围更多的是大型住宅公团,"团地"生活容易老死不相往来,老人希望利用合办节庆的机会,把更多的"团地族"与传统仪式衔接起来。

  佐藤先生在抱怨一件类似的事情,"现在老是强调个人隐私,町会干部好多事情不敢问了,比如吧,我们要搞一个敬老协会,让75岁以上的老人参加,可是人家的年龄就不太好问,于是我们只好猜:那个老太太应该有75岁了吧,那就请她参加……"

  龟户地区老人生活与整个日本并无大的不同。如果加入了国民年金,退休以后每个月可以领25万日元(约合2万人民币)左右,如果是大公司职员,这个数字可以达到40万日元,加上日本家庭一般存款较多,所以多数老人生活优渥,用佐藤的话说,"在社区活动之外,每天做做操、散散步、遛遛狗,还经常旅游"。有趣的是,在谈到自己买马彩这个爱好时,他颇有些不好意思:"这个不得体……中国的老人比我们要有追求吧?"

  下午4点,佐藤先生开车带我们去往夏末大会的主会场——龟户中央公园。这是一次联合了龟户22个町会的更盛大的节庆,包括了神舆巡游、防灾体验、模拟贩卖、纳凉大会、花火大会等等,预算超过 700万日元,"行政很坏!区役所只肯出一半的钱,剩下一半,除了各町会从会费中拿,还要请企业来赞助。"

  请来的企业多是某某料理店、某某纪念品商店、某某会计所,做的都是街坊生意,每家出2万日元赞助,然后在明黄色的活动手册上登一个豆腐块广告。今年节庆要放烟花,"目标一千发",可是赞助没拉够,只能放600发,他们也不在意,仍然高高兴兴地写"花火大会赞助感谢"。

  5 点,太阳没那么毒辣了,小摊贩的生意也来了。他们中的多数人是专做节庆生意的露天商,打着大阪、广岛、北海道特色美食的招牌,空气中弥漫着章鱼烧和爆米花的香味,有点中国庙会的感觉。陆续前来的市民不少穿着"浴衣"(一种较轻便的和服),他们买些小吃,在草地上铺块塑料布,架个小桌板,就围坐在一起边吃边聊,这场景,和数十年前,甚至数百年前的场景没有什么两样,也许,日本想象力丰富的"怪谈"就是从这里诞生的吧。

  太阳快落山的时候,中央公园的灯笼亮了起来,一群穿着正装、领导模样的人进场,他们在儿童鼓乐队的引导下前进,偶尔举手向草坪上的市民打个招呼。市民们继续喝着啤酒,吃着烧烤,偶尔也给他们鼓鼓掌。领导们绕场一周后,坐到了舞台上,儿童鼓乐队开始一首一首演奏乐曲,听起来全部是似曾相识的日本动画片主题歌,每奏完一曲,台上的领导都要微笑着鼓励一下,看起来有一种令人忍俊不禁的与民同乐气氛。之后是领导讲话,区长、议长和本地政治新星依次登场,说的无非是要团结起来,让龟户更美好之类的话,也没几个人在认真地听,倒是舞台下方那绿油油的宣传标语更有意思:"防中暑,要喝有盐分的水!"

  演出在7点准时开始,22个町会的婆婆妈妈们依次登场,都穿着和服,蹬着木屐,跳着节奏缓慢的传统舞蹈。台上跳得起劲,台下的"浴衣"们也不遑多让,披着残留的"夕烧"(夕阳),踩着音乐的拍子加入了草坪上的集体舞,踩地、抬腿、半转身……如果这个时候有人从空中往下看,他会看见一个几百人手挽手围着的巨大圆圈,在慢慢地逆时针转动呢。再过一个多小时,天黑透了,人微醺了,舞跳累了,花火会倏地升上夜空,开出600朵璀璨的花儿来。

  "以节庆之名"是这一切的契机,人类学家早就注意到日本人对"即时传统"的偏好,他们擅长借用各种传统符号——它可能是本地神社某个古老的仪式,可能是"下町"家长里短的生活方式,也可能是日本文化中对易逝的美好事物(譬如樱花和花火)的迷恋——来覆盖新的环境,从而创造出人们对一个自治的邻里的认同:这里是江东区,这里是龟户,这里是龟户三丁目。不过也有人类学家视野之外的话题,日本杏林大学副教授刘迪提醒本刊记者,中国人看日本,往往只看到它的内阁在走马灯似地换,却少有人看到中央政府不稳定之下地方自治体的稳定,"这种稳定的自治能力,是不是日本虽经历20年经济不景气,却仍然没有垮掉的重要原因呢?"

  日本的传统与现代如此和谐地交融在一起,这个高度发达的后工业化国家,并没有像我们一样在现代化过程中疾速地抛弃传统文化和民间习俗,另一方面,日本让我们感觉到,民间社会,是比国家机器更久远和安定的力量。

  (参考资料:西奥多·C·贝斯特《邻里东京》、张暄《日本社区》、张燕淳《日本四季》、三浦展《下流社会》)

  风物新泻 诗意的农村

  正如北京上海不能代表中国,东京大阪也不能代表日本,日本的三农(农村农业农民)地区是何样貌?新泻是一个典型。

  穿过县界长长的隧道,车窗外的云朵开始集聚,翻滚起来。最近的一站叫越后汤泽,川端康成笔下的雪国。大巴从山腰的隧道口滑行而下,把关越高速的大堵车抛在后面,眼前展现出木屋、炊烟、杉树、水田,还有小小湖泊点缀的巨大盆地。

  已是新泻县(注:日本的县相当于中国的省)境内,大巴继续急行北上,穿过数条清澈的溪流,路边金黄色的稻田渐渐长大,到六日町已经连成了相当可观的一大片,接着是鱼沼、小千谷、长冈,直至三条。

  拖着箱子从高速公路边的IC站出来,下了台阶,钻过涵洞,鞋子沾上了草叶,又被"下午的露水"打湿。辗转找到酒店,放了行李,洗脸时喝了口自来水,竟是甘甜的,完全没有东京的那股生味。

  三条这个小城,初看真像是美国电影里的西部小镇:行人寥寥,汽车呼啸而过,五颜六色的集装箱式卖场立在路边,标识也数英文的"SHOE PLAZA"、"JEAN SHOP"、"YELLOW HAT"最大。"日本"二字,都藏在细节里——窗台下摆放得恰到好处的盆栽植物,看似随意其实精心整饬过的篱笆,以及上面蓝色紫色的"朝颜"(牵牛花),还有,饭房前屋后突然冒出来的一小块水田。

  安达先生从打谷的车间里走出来,满面尘灰烟火色的,精神却矍铄,他把我们引进木屋,沏上乌龙茶。 "我们这个泉生产合作社成立于昭和45年(1970 年),主要种植大米和大豆,现在有成员149人,大部分都是老年人。成员把自家土地租给我们,我们在上面耕种,收成卖给农协,再回过头来给成员发工资。"

  1946 年,安达一家拥有了自己的土地——战后,在麦克阿瑟的主持下,日本政府强制收购地主土地,并以低廉的价格转卖给佃农和有能力经营者。安达先生在自家2.6 公顷土地上耕种了60年,看起来熟悉这里的每一粒谷子。"抽穗的禾苗是最娇贵的,最要用心,对水和温度的反应都要非常快,要随时做出调整……"

  他说,只有缓慢而充实的生长才能产出最好的大米,而温室效应让水稻的生长速度变快,现在,日本最适合水稻生长的地方,正由以越光米闻名的新泻,转向更北的北海道。"以前我们还用稻架,收割下来的水稻会在稻架晾晒近一个月,让谷子充分吸收阳光和水分,吃起来会更香。但是现在很多地方控制成本,省去了这一环节,米不如以前香了。"

  日本农协具有强大的议价能力,农村也一直是日本政治的大票仓,所以农业在几十年来一直得到自民党政府的巨额补贴,以保护农产品的价格,据说日本农民收入的一半都来源于政府补贴。补贴造就了日本的高价农业,在东京银座的米饭博物馆里,2公斤一袋的新泻产"无洗米",最便宜也要卖到1000日元(80元人民币)。正因为如此,大量农民虽然早有其他职业,仍不愿放弃自己的稻田。"我们家也吃自己种的米,省钱,"我们的司机、三条市经济部农林课的副主管板垣先生说——难怪三条市区常常见到零星的水田,总不能每个人都是陶渊明吧。

  这也是泉生产合作社成立的背景之一,因为越来越多的人选择兼业,无暇精耕细作,才有必要协同生产。"新泻的气候好,水好,可是如果不用心,也赢不了。"安达说。

  绝大多数日本人都对安达们生产的日本米有固执的偏爱,"虽然贵,但是更粘,更好吃。"便宜的外国米,比如泰国米,"就只适合做咖喱饭的时候用一用。"

  "中国人开始吃饭前,会说什么呢?"陪同我们的美纪小姐问。

  我们想了半天,"好像没有……"大约是为了感念生产者之辛劳,他们吃饭前要说"忆他大咳马斯"(我要开始吃了),饭后要说"各取所需嘛,得喜它"(我吃好了,谢谢款待),尤其是家里孩子在场的时候。

  今天的日本料理,采用的都是本地食材,先端上来的是一大盆"枝豆"(毛豆)。日本的毛豆,以新泻产的风味最佳,"你们看,比东京给的多多了吧!"司机抱怨首都料理店里的袖珍碗。

  橙汁、凉拌雏菊、刺身、煮物、烧物、味增汤……依次被端上来,冷与暖、厚与薄、光与影、光滑与粗砺,搭配精巧,构成了一副迷你的图画。日语中有 "kodawari"一词,汉字写作"拘",有一句话说,中国人是商人,日本人是匠人,日人若要做一件事,必要"拘泥"于此,力求完美无缺。具体到日本料理,便是讲究刀工、精选可使用的不同部分,并注重颜色质地搭配以刺激食欲,无怪乎有人调侃,日本料理与其说是给人吃的,毋宁说是给人看的。但一位日本人走得更远:"我要说,日本食物是给人想的,是一曲无声的音乐,漆器和黑暗中摇曳的烛光一起,把这一曲音乐给唤了出来。"

  热气腾腾的白米饭打断了关于日本美学的遐思,日本朋友用筷子蘸上米粒细细品尝——他们似乎总是极珍爱"日本原有"的一切,我却并未觉出和中国的东北大米有多大区别,只是个头饱满些,粘稠些。对,非常粘稠,稍微一搅动,米粒就紧紧地抱在了一起,就像大和民族一样。

  二战接近尾声的时候,日本经济濒临崩溃,普通人家已经很难吃到白米,天皇的忠实臣民被鼓励食用橡子、谷糠、花生壳和锯末来补充淀粉摄入,而蛋白质的不足,则要通过吃蚕、蚯蚓、蚂蚱、家鼠、田鼠来补充。日本政府的研究者还说,如果好好消毒,老鼠尝起来就像是小鸟的味道,但要避免吃它们的骨头,因为会使人体重减轻。

  1946年,日本开始从美国的亚洲救援公认团体接受物资援助,1950年,美国赠送的面粉已经为八大城市的小学提供面包加牛奶的供餐。 1953年,在大阪市的一个展览会上,组织者宣传吃面包的好处,并警告偏食米饭会导致营养不良,他们甚至说,"吃了米饭会变成傻子"——这只是日本全国上下"饮食生活合理化"的一个缩影。然而随着日本经济的复苏及起飞,1970年,学校供餐开始混入米加工品,1975年得出结论:养成吃米饭的习惯在教育上是有意义的,次年,正式导入米饭供餐……米饭重新夺回了"主食"的名号。

  两三年前,日本朋友还经常吃从中国进口的食品,"胡萝卜、花生啊什么的,因为便宜,所以老买",后来"毒饺子"事件爆发,日本大小超市将Made in China通通下架,如今两年多过去了,这座小城的超市仍然看不到中国制造的食品,"很多人还是不太敢买,毕竟后来又不断有食品安全的新闻,比如毒奶粉什么。"不过有一样东西他们是热爱的——天津栗子,"这个应该不容易添加什么东西吧?"

  淅淅沥沥下了两天的雨,东京小店里写着"凉"字的风铃还没下架,这里已经感受到秋意。沿着五十岚川往山中行,见一老农在向已收割过的地里倾倒稻壳,心生好奇,便和同行的农林土木系官员前去询问。

  这是五十岚川冲积出来的一片开阔谷地,白鹭在浅浅滑翔,据说朱鹮也是常客,这种珍贵的鸟类在日本已经灭绝,从中国引进后又重归自然,新泻成了它们的栖居良地。官员照例一通哈腰问好,老农听清了来意,慢悠悠走到田边,扶着他那崭新的斯巴鲁小货车和我们聊了起来。

  原来稻壳被用作有机肥料,这样便不用烧荒也不必施化肥,就能保持稻田的肥力,"现在在琢磨着种出一种彻底无公害又好吃的大米。"没想到老人家还在想着发明创造。在问清对方是农林课的官员后,他抱怨起来:现在米价太便宜了,比以前低了一半,物价却又不低,农家赚不到钱,辛苦啊!不过他又说,附近温泉不少,闲时可以放松放松,今年他还特别去了北海道度假。官员一边陪笑,一边发出尾音上扬的"喔喔"之声。

  要去的地方叫北五百川,是日本的"全国棚田百选"。"棚田"就是梯田,不过,成为景点的北五百川梯田并没有圈起来收门票,而是继续由4户农民耕作,佐野先生就是其中之一。

  雨刚停,他拿起一小瓶盐,领着我们往山上走。空气湿润又清冽,教人忍不住大口呼吸。梯田已经收割完毕,禾根又重新发出绿油油的小苗,齐刷刷地长着,远望还以为是一片新田,田边等距种着漂亮的石蒜,过了花季,花瓣褪去了鲜红,加了粉色和橙红。不只是美观,"这种花还可以驱赶老鼠,"佐野介绍。

  破坏稻田的不止老鼠,还有猴子,人们就在梯田顶部立个瓦斯枪,每隔几分钟就自动嘣响一次,吓跑偷食者。梯田的水源是山中泉水,可以直接饮用,"水比较冷,所以梯田产量比平原低,但是因为水好,所以米好吃,价格更高。"

  以 "发展"的眼光看,佐野先生这样"小规模、低效率"的农户,早就该退出市场了,可是,正是战后农地改革建立的自耕农体制,以及政府对农业无微不至的保护,让农村也迅速富裕起来,没有被飞速发展的工业化抛下。根据日本农林水产省的统计,2008年日本贩卖农家的年均收入是466万日元(约合33.3 万元),而上班族的年均收入则是641万日元(约合51.3万元),差距并不算大。在日语里,"农民"二字几乎没有任何负面含义,不知是否和农村的富裕有关?而在政治上,"保守的"日本农村在1950年以后几乎没有发生过农民运动,成为社会稳定的基础,在中国颇有名的专栏作家加藤嘉一接受本刊采访时说:在日本,越是乡下的人,越感觉幸福,也越为日本自豪。

  走完280级台阶,我们在一个凉亭里小歇。突然觉得脚踝处又痒又麻,撩起裤角,两条水蛭赫然在目,我还没来得及叫出声来,佐野先生已不慌不忙地把它们揪掉,那瓶盐现在发挥了作用,水蛭很快成了水蛭干。

  再有两个多月,雪国就要迎来漫长的冬季,大雪会从12月下起,来年4月才化,那时候佐野先生们就该躲进建得像别墅一样漂亮的木屋,围着暖炉过冬了,"冬天出不了门,都做什么呢?""什么都不做呢!"

  泉水沿梯田而下,到山脚成了溪流,人们在这里筑坝,把溪水引向平原用于灌溉。溪流继续奔腾,汇入盛产鲑鱼的五十岚川,五十岚川再往前流淌十几公里,就注入了日本最长的河流信浓川。

  信浓川的水是青黑色的,我一看到它就想起了三岛由纪夫对川端康成描绘的日本,"亚洲那巨大的夜之山麓正是日本,恰如爱尔兰作家注重晨昏朦影一样,我们习惯于在这种朦胧柔和、没有黑柱石般硬度且轻盈似水的夜色里,讲述着各种各样的幻想趣话。"有时候我觉得,日本人的"kodawari",和这是一个 "入魅"的国度多少有些关系,他们相信任何事物身上都寄居着神灵,需要被恭敬地对待。

  我们站在信浓川冲积出来的一大片平原上,这里是最好的果树产区,河流定期泛滥,让土壤格外肥沃。7月中旬,桃子红了,7月下旬,葡萄也熟了。8月中旬以后,进入梨的季节,大大小小的梨被送上大岛果实晒选厂的传送带,然后经过扫描仪自动按水分、个头、形状分成三六九等。新泻最好的梨Le lectier要等到10月中旬以后才会成熟,而摘下来的梨,还要放置一个月,用农民的话说,"让它们睡睡觉",然后在超市里卖到2000日元(160元人民币)一个。

  享受更好待遇的是渡边康弘家的水果。这位45岁的日本农民,脸上还长着粉刺(一定是我看错了),他会给自己果园的水果播放音乐,"它们最爱听的是巴赫的古典音乐,最喜欢的乐器则是北印度的弦乐器西塔琴……"

  说的好像都是自己的朋友。

  上午10点,"水松的季节"开门了。

  这是一家地产地销合作社商店,卖的蔬果比超市便宜3成,都是附近的农民早晨送来的,只要你拥有农协的生产证书,与合作社签个协议,就可以供应蔬果。

  葡萄、苹果、西红柿、辣椒、莲藕,还有一种叫穰荷的东西,都水灵灵的,商店的经营者解释,这些都是早晨才摘下来或者挖出来的,只卖到下午4点。包装盒上生产者的名字与电话,都写得清清楚楚,同样是马铃薯,卖的价格也不一样,都是由农民自己定的——也许安达家经过晾晒的大米、渡边家爱听音乐的水果会卖得贵些?这个时候,买谁不买谁,大概就看品质和信誉吧。合作社提取15%的费用以维持运营,"但是我们不营利,我们的目的是让主妇们开开心心地买到安全健康的食品。"

  三条市市长国定勇人是"地产地销"的支持者,他刚刚花3万日元订购了一家合作社的60千克大米,"日本的食粮自给率只有30%多,但是三条市的自给率达到了83%。"

  38 岁的国定勇人在东京出生成长,4年前由日本总务省派驻三条工作,随后对这个偏远小城产生好感,并竞选市长成功,在他看来,1990年代初经济泡沫破灭后,日本才算真正进入了地方时代。"战后很长一段时间都是'开发独裁'的模式,人和钱都往大城市集中,但是泡沫破灭后,中央开始愿意分权,地方有了更多的自主权,日本也渐渐由纵向社会向横向转变。"

  他说,泡沫破灭前,这个国家和人民满脑子只想着"发展",现在,人们开始重新思考,什么才是生活, "当然,说得不好听些,现在的日本人失去了目标,但是这也是一个机会,让人们重新找回自己的'POSITION'(位置),建立一个真正丰富多元的社会……拿我自己来说,我很享受一大家子围坐在一起吃饭的感觉,可是现在这样的场景只有在三条这样的地方才能看到,在东京早就不存在了。"

  坐上新干线时天已经黑了,列车的速度如此之快,只用了两个小时,就把县界、雪国,还有黑色的夜交还给了东京的灯火。这座巨大的城市正由内而外发出咝咝的躁动,我拖着行李箱上了电梯,再次穿行于上野车站的西装革履间,在眼花缭乱的"改札"(Gates)中寻找对的出口。

  (感谢三条市政府、泉京鹿女士、王尧、孙冉以及中国驻新泻领事馆张智浩先生提供的帮助)

  日本的国族困惑

  日本在19世纪开国之后,特别是明治维新步入世界强国之林后,在国家与文化的认同上即存在一个"欧"、"亚"的问题,这给日本的国族认同造成了困惑,而战争的动机与邻国的关系也与这个大问题紧密相关

  日本作家兼导演伊丹十三1986年的电影《蒲公英》中有一个场景,一群穿着西式宴会服装的年轻女士正在主餐厅中上"魅力学校"的课程。今天教的是吃意大利蛤蛎面的礼仪,教师是餐厅的女主人,她对学生们说意大利面条应该静静地享用(不像日本面条,可以大声地从碗里吸出来)。她优雅地将叉子送到唇边做示范,这时房间对面突然传来响亮的啧啧声。大家都扭过头去,发现一名外国人正狼吞虎咽地吃着盘子里的意大利面。女孩子们都疑惑不解,教师则勃然大怒。结果,全班的人当然都放弃了修习餐桌礼仪的努力,冲动地加入了外国导师的行列,响亮地向蛤蛎面发起了进攻,好像那是日本拉面一样。

  电影摄制者的观点明白无误:西方知识是权力和权威的源泉,日本人狂热地模仿西方,因此总是要从外部寻找权威,结果他们对自己的身份总是感到疑惑。

  19世纪后期,日本人学习和效仿的重点从中国转向欧洲,又逐渐转向美国。

  整个20世纪,日本的知识分子都在殚精竭虑地定位、定义"日本特性"的实质。在日本这样的一元社会中,他们如此执着的努力充分表明,文化上的矛盾心理以及长期依赖不同于本土传统的外在价值和行为,已经导致了反复出现的疑惑和绝望情绪,类似于民族身份危机,这一结论可以从很多地方找到充分的证据。

  1911年8月,日本作家夏目漱石在刚成立的学习院里做了题为"现代时期的日本文明"的演讲。在演讲中,他把他所谓的"道德平衡的丧失"和日本对西方奴隶一般的模仿直接联系了起来:

  简单来说,西方文明(我是说,一般意义上的文明)是从内部生成的,而日本的文明是从外部生成的。"内部生成的"事物自然而然从其本身发展出来,如同鲜花绽放,先是蓓蕾初开,然后花瓣向四周展开。而"外部生成的"事物总是由于外在的压力而被迫呈现出某种特定的样子……

  这种主体价值的丧失让日本对西方列强亦步亦趋。日本在二战中的战争行为后来被一些研究者解读为,日本作为后来崛起的强国,必须按照西方列强设定的游戏规则行事,即弱肉强食的殖民体系,日本如果不殖民他国,就会被他国殖民,这种思维模式既给他国也给日本带来了灾难。

  王屏在《近代日本的亚细亚主义》中曾指出:"近代日本人的国际观是在'东洋对西洋、文明对野蛮'的框架内形成的。在按道德画线时,日本把自己划归为东洋。在按文明画线时,日本又把自己划归为西洋。"例如日本民族主义者石原慎太郎的发言,就表现出这样的困惑。尽管石原慎太郎对美国与中国都有所批判,但两者作为对日本的"威胁",意义迥然不同:石原口中的美国是一个蛮横的压迫者,以伪善的世界警察姿态四处干涉,而日本明明有能力与之平起平坐,却又因肤色之故受尽歧视,因此必得加以谴责,并以亚洲特有的文明价值来声称日本比美国更优越,从而与之竞逐普遍霸权地位。相对的,中国则是一个落后的、反人权的、不遵守文明世界游戏规则的麻烦制造者,同时又是亚洲安全的威胁者,因此日本不时以文明承载者的姿态对中国指指点点,甚至提醒军事同盟的美国一起防范中国。石原想带着亚洲对抗西方,是复制战前日本由"脱亚"而"兴亚"的图式,遮掩其不被美国平等接纳的状态;但当中国经济超越日本的预言蔓延,甚而与日本竞逐区域领导者时,石原又必须拉着日美同盟的力量来箝制中国,从而强调其比中国更优越、更符合现代性的文明身份。

  然而恰恰是在石原对于中国的抗拒中,透露出日本依旧在欧亚之间无家可归的困窘。从战前的帝国主义岐路到战后的经济大国路线,日本的国家主义是追随着西方文明的价值而亦步亦趋发展起来。正如酒井直树在分析战后日本发展经验时所指出的,特殊主义和普遍主义之间存在着互为表里、相互形塑的关系,战后日本对于现代性的追求,其实是以日本的"美国化"为目标,因此既已无力对日本的发展模式提出反省,那么即便选择了以特殊化的日本民族主义形式来批判美国,最终衣只是再次确认美国价值的优越性,也强化了日本的无力感。

  (参考资料: 《无约束的日本》,论文《如何正常,怎样国家——走近石原慎太郎的国族叙事》)


2010年11月27日土曜日

ITPro SSL

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20101119/354336/
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20101117/354263/?ST=security

SSLでは不十分、クラウド時代の暗号化

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山崎 文明/ビジネスアシュアランス 社長

 サイバー犯罪者がセキュリティレベルの高い標的を攻撃する場合には、「正規のユーザーのIDとパスワード」の取得を狙う傾向が強まっている。サーバーのセキュリティ対策が十分に高いと、サーバーを直接攻撃しても得られるものが少ないからだ。より脆弱な攻撃対象としてユーザーを狙うのは、前回記事でジム・イエーガー氏やVISAが指摘した通りの動きといえる。

 ほとんどのシステムにおいて、正規ユーザーのIDとパスワードが盗まれると、そのユーザーに被害が及ぶのを防ぐことは難しい。ここで参考になるのがクレジットカード業界の取り組みだ。クレジットカード番号はカード所有者を識別する一種のIDであり、このIDを保護するために様々な工夫を凝らしている。欧米ではクレジットカード情報を狙うサイバー犯罪が多く、特にセキュリティ対策が進んでいる業界になっている。

 IDの漏えいが発生する主な経路は、ユーザー端末のウイルス感染、ユーザーのフィッシング被害、通信経路での盗聴、サーバーへの攻撃が考えられる。特に重要なのが通信経路上の盗聴対策だ。クレジットカード情報の場合、ホテルや小売店の店頭からISP(インターネットサービスプロバイダー)はもちろん、決済代行を行うサービスプロバイダーやアクワイアラと呼ばれる加盟店契約会社、そしてカード発行会社と複数の事業体間を行き来する。そのため、通信経路の途中でデータ漏えいする可能性が高い。

 同様のことは一般企業にもいえる。今後、複数のクラウドサービスを連携させて使用することが一般企業で普及していくと考えられる。こうなると、セキュリティの観点から見た脅威はクレジットカード決済システムと同様の状況になる。「データの機密性は自身で守る」というデータセキュリティの考えが重要になる。

 通信経路からのデータ漏えいを防止するには、一般にSSL(Secure Sockets Layer)やVPN(仮想閉域網)など通信経路の暗号化技術を使用する。クレジットカード業界ではより安全性を高めるために、アプリケーション間でデータを暗号化して受け渡す技術を導入している場合も多い。「Point-to-Point Encryption(P2PE)」と呼ぶ暗号化手法だ。PCI DSSの発行元団体PCI SSCでは、P2PEの普及を促進するためにP2PE導入のためのガイドラインの策定を予定している。ガイドラインには、P2PE製品の選定時の留意事項などが記述されるだけでなく、PCI SSCとしての製品認定制度まで計画されている。一般企業でもP2PEの導入を検討する際には参考にするとよいだろう。


SSLやVPNだけでは暗号化しきれない部分がある


 重要度の高いデータを扱う企業では、一般的なSSLやVPNだけでは不十分とする論調が米国のセキュリティ専門家の間で高まっている。2009年2月に発生した「ハートランド・ペイメント・システム事件」がきっかけだ(図1)。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20101119/354336/?SS=imgview&FD=54136146&ST=security
図1●2009年2月に発生した「ハートランド・ペイメント・システム事件」の概要
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 ハートランド・ペイメント・システムは米国の企業で、クレジットカードの決済代行を行うサービスプロバイダで全米6位の大手である。25万店以上の加盟店にサービス提供を行っていた。これだけのクレジットカード決済代行大手だけに、当然、PCI DSS準拠の証明は取得済みだった。

 加盟店との通信をSSLで暗号化していたのはもちろん、データセンター内のWebサーバーとデータベース・サーバーの間もVPNで接続していた。さらにデータベース・サーバー上のデータもPCI DSSの要求に従ってクレジットカード番号を暗号化していた。

 Webサーバーとデータベース・サーバーの間をVPN接続する例は、日本では少ないが、米国企業では多く取られる方法だ。社内ネットワークでの盗聴を防ぐためである。同社はこれほどまでに重装備のセキュリティ対策をしながらも、2009年2月にクレジットカード情報の漏えいが発覚した。流出した情報の推定総数は1億件以上と過去最大規模だった。

 後の調査で判明したところによると、漏えいは2008年頃から継続して発生していた。データをキャプチャして特定の送信先に転送するマルウエアが、Webサーバーに仕掛けられていたのだ。

 SSLによる暗号化は、Webサーバーまではデータを暗号化する。しかし、Webサーバーは届いたデータをサーバー内でいったん復号する。サイバー犯罪者はそこに目を付け、Webサーバーにマルウエアを仕込んだ。Webサーバーはインターネット接続ポイントに設置されたファイアウォールの内側で、アプリケーションサーバーやデータベースサーバーが設置されるドメインとファイアウォールで区分された「DMZ」と呼ばれるネットワーク領域に設置される。

 Webサーバーからアプリケーションサーバーに送り込むデータは平文だ。ハートランド・ペイメント・システム事件では、この点を突かれてしまった。

 一方、P2PEでは、ファイアーウォールの内側に設置されたアプリケーション・サーバーまで暗号文のまま処理する。P2PEであれば、ハートランド・ペイメント・システム事件は防げたかもしれない。

 さらにハートランド・ペイメント・システム事件を契機に、複数のノード(サービス事業者など)にまたがって終端から終端までを一貫して暗号化する「End-to-End application-level Encryption(E2EE)」を重要視する論調が台頭しつつある(図2)。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20101119/354336/?SS=imgview&FD=55059667&ST=security
図2●End-to-End application-level EncryptionとPoint-to-Point Encryptionの違い
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 P2PEやE2EEではブラウザのSSL機能に加え、プラグインやアプレットなどを使用してアプリケーションレベルでの暗号化手法を用いる。これを利用して、ユーザーのパソコンから最終事業者のバックエンド・サーバーまでを暗号化した状態で情報を送受信する。P2PEやE2EEを実現するために終端と終端で暗号化、復号化するアプライアンスやASPサービスが、すでに国内でも販売されている。


レイヤード・ディフェンスで考える


 ここまで暗号化の強化方法のトレンドを解説してきたが、情報セキュリティは特定要素を強化するだけでは済まない。図3のような「レイヤード・ディフェンス」の考え方が重要だ。

図3●レイヤード・ディフェンスの概要
図3●レイヤード・ディフェンスの概要

 データの暗号化やアクセス制御など、データ保護に直接機能するセキュリティ対策を「防護管理」と呼ぶ。セキュリティ対策の中核であるのは間違いないが、部外者の物理的な侵入や内部犯行などの脅威を想定するとこれだけでは不十分だ。セキュリティ対策に重要なことは網羅性である。あらゆる脅威を想定して対策が施される必要がある。

 したがって、広範囲の脅威を対象にしたセキュリティ・ポリシーは必須だ。不正アクセスの予防には、アクセス制御機能が不可欠だが、不正行為自体を防御するにはアクセス権限を付与できる人物とアクセス権を行使する人物を分けるといった職務分掌も必要だ。このように、幾重にも張り巡らしたセキュリティ対策が相互に機能して、初めて高度なセキュリティが維持できる。

 今後、クラウドを活用する企業は間違いなく増えていくだろう。そこでもレイヤード・ディフェンスの考え方は役に立つ。パブリック・クラウド環境ではセキュリティ・ポリシーと発見的コントロールの大半を、クラウド事業者の手に委ねることになる。ここで、発見的コントロールとは、アクセスログを収集して分析することで不正アクセスを発見したり、ファイルの改ざん検知システムを使用して不正なファイル改ざんを発見する活動を指す。

 こうした環境では、クラウドの利用者が自己のデータをコントロール下に置くことが重要になる。すでにサービス提供が始まっているパブリック・クラウドでは、データの安全性に関しては利用者の自己責任であることを前提に契約することが常識化しているからだ。したがって、自己のデータは自己で守るという対策、すなわち防護管理のセキュリティ対策が今以上に重要性を帯びてくる。

 今回紹介したP2PE、E2EEといった強固な暗号化は、クラウドを活用する企業にとって検討すべきセキュリティ対策になるだろう。このほか、新たな防護管理のセキュリティ対策として「トークナイゼーション」と呼ぶ手法が、最近欧米で注目を集めている。次回はトークナイゼーションについて解説する。

山崎 文明 (やまさき ふみあき)
ビジネスアシュアランス 社長

大手外資系会計監査法人でシステム監査に永年従事。システム監査、情報セキュリティ、個人情報保護に関する専門家として情報セキュリティに関する政府関連委員会委員を歴任。主な著書に「PCIデータセキュリティ基準完全対策」(日経BP社監修)「すべてわかる個人情報保護」(日経BP社)、「情報セキュリティと個人情報保護完全対策」(日経BP社)、「情報セキュリティハンドブック」(オーム社 共著)、「システム監査の方法」(中央経済社共著)、「コンティンジェンシー・プランニング」(日経BP社 共著)、セキュリティマネジメント・ハンドブック(日刊工業新聞社共著)などがある。
[委員等就任実績]
内閣官房安全保障危機管理室 情報セキュリティ対策推進室WG委員、警察大学校不正アクセス犯罪等対策専科講師、学校セキュリティ検討委員会委員(経済産業省)、サイバーテロ演習評価委員会委員(経済産業省)、不正プログラム調査研究委員会委員(警察庁)、サイバーセキュリティ調査研究委員会委員(警察庁)

分析称WP7应用普遍比iPhone和Android便宜

分析称WP7应用普遍比iPhone和Android便宜

2010年11月27日12:49腾讯科技万学
字号:T|T

腾讯科技讯(万学)北京时间11月27日消息,根据国外媒体报道,一家分析公司发布报告称,WP7应用程序普遍要比iPhone和Android应用程序便宜。

根据分析公司Distimo的报告,在WP7 market应用商店中,应用程序的价格比任何其他主要的竞争者都要便宜得多。专为苹果、谷歌、黑莓、诺基亚和Palm手机开发的应用程序,普遍要比WP7应用程序的价格更高。

WP7应用程序的平均价格为1.95美元,在它的100款顶级的应用程序中,有57%的应用程序定价不超过2.00美元。这算得上是Windows Mobile应用程序的一大变化,因为它们以前的价格普遍要比其他竞争对手的高。

此外,Distimo公司的报告中还有一个有趣的现象。从Android Market应用商店中的前100款付费应用程序来看,Android应用程序的价格要比iPhone应用程序的价格高。但是,若从Android Market应用商店中的全部应用程序来看,Android应用程序的平均价格仍然要低于iPhone付费应用程序的平均价格。


揭秘泛滥互联网水军:发帖回帖均不停换IP

揭秘泛滥互联网水军:发帖回帖均不停换IP
http://tech.qq.com/a/20101126/000325.htm
2010年11月26日12:11南方周末王小乔 黄小米
字号:T|T

在一次次网络争斗背后,都潜伏着无数水军。

  持续两个多月的3Q大战终于宣告终结。11月20日,工信部责令腾讯和360向用户公开道歉,并立刻停止相互攻击。当晚,腾讯门户和360安全卫士首页挂出了"道歉信"。

  但互联网暗战仍不知终点。

  一位网名为王海的资深水军(指被雇用专在网络上潜水发帖的人――编者注)对南方周末记者承认,他深度参与了这起大战。自9月初开始,这个专职于接单再转包的水军中间商,几乎每天都能接到来自360的委托。

  而另一位受雇于腾讯的网络公关公司总经理也坦率承认了水军的存在,"这一次用得不多,效果也不好"。

  虽然马化腾和周鸿�没有公开承认自己在这次事件中动用了水军,不过网民们还是饶有兴致地开展了"找水军"游戏,并总结出了规律,如微博的末尾跟着莫名其妙毫无关联的数字或生僻字,就极有可能是水军。"原来水军都是这么计件的啊。"最早发现的网友感慨道。

  生存在网络时代的人们对这样的事件是无从辨别真假的,惟一无可置疑的是网络水军的存在。这是一支庞大的雇佣军队伍,他们受雇于企业、组织或个人,通过发帖回帖等方式,在互联网上发布有利于雇主的言论。

  从两个多月前的蒙牛黑公关事件到刚刚结束的3Q大战,水军的"军备"和"战术"彻底浮出水面。王海甚至给3Q大战打上了"水军行业里程碑"的标签,因为人多了,"一下子暴涨了两三倍";也因为名气大了,中央电视台《焦点访谈》都报道了,"只不过把我们叫成了网络流氓",其实,"我们就是网络公关业的农民工"。

  据南方周末记者调查,水军群体萌芽于五年前,三年前开始规模化。到如今,水军已经渗透到互联网的每一个角落,从论坛、博客到QQ群、邮件组,再到新兴的微博;也几乎活跃于每一起热门事件、每一个网络红人、每一件消费性产品的推广,甚至个人利益的表达之中,只不过围观的人常常浑然不觉。

  如蝼蚁般生存的水军之上,是策划这一幕幕戏剧的网络推手或网络打手;而他们,又是在贯彻着"制片人"雇主形形色色的意志。

  "水军已经成为常态,不用反而奇怪了"

  小月月起于天涯;贾君鹏的主阵地是百度贴吧;"人肉搜索"虐猫女全程都在猫扑上进行。

  "今天开车走到公园附近,突然感慨起来,周鸿�还是挺牛的,想想,在他公司干的人,跟着他的人,现在出来打江山的,千万富翁不少。"

  如此个人化的表述,却重复出现在几十个不同账号的微博中。这被有心人发现,视为360雇用水军的最直接的证据,"开车走到公园附近"迅速在网络上成为流行语,并变换出各种不同的版本。

  360公司迅速针对这起"公园门"事件回应称,这是新编的"传说",并建议"编造者"今后要用更专业的人员、更创新的手法,以增加可信度。

  像王海这样的老水军是不会犯这样的低级错误的。他给下线派任务时,有一套放之四海的规则:发帖时,同一内容的一个论坛最多发一篇;回帖时,同一ID至少隔50个回复才能再次出现。无论发帖还是回帖,IP地址都要不停地换。

  这是征战多年的经验教训。2007年时,曾有公关公司受雇在各大数码论坛里发广告帖刷屏,个个论坛都连发上百帖。删帖删到手疼的版主们,愤怒之下,组成了抵制该品牌的联盟。

  "现在不仅仅是刷屏了,还能做到有针对有选择地发。"知名论坛凯迪社区副主编李婉莉很感慨如今水军的专业化。

  小月月起于天涯;贾君鹏的主阵地是百度贴吧;"人肉搜索"虐猫女全程都在猫扑上进行;而在凯迪社区,国美股权之争、达能娃哈哈之战背后聚集着大批水军。

  身在美国的著名网络推手"浪兄"认为,判断水军是否存在的依据是背后有无利益。"和商业无关的热帖,都是没有水军的。民工没有工资拿谁会去干。"

  "犀利哥会拿一分钱给你吗?一个10万的量,4到5毛一个帖子,就意味着要花四五万。赚不到钱,谁会做!"他说。

  但是,和商业有没有关系,有怎样的关系,却是五花八门。如果不是事后曝光,谁也想不到贾君鹏是为魔兽世界量身打造;虐猫女是为猫扑造人气;国美股权、达能娃哈哈、3Q大战,水军们奉命要拿下的,则是一个个舆论制高点。

  甚至弱势群体们也会雇水军干活。南方周末记者潜入一个水军群后,接到的第一个任务,竟然是将天涯上一条"福彩中心员工集体控诉被失业后没有得到妥善安置"的帖子顶到1000楼。新势整合传播机构互动营销部客户总监高胜宁在接受媒体采访时,也曾提到其通过帮一群广东的拆迁户在天涯上策划发帖,挣到人生第一桶金。

  当然,删除赤裸裸的小广告帖仍是李婉莉和同事每天必不可少的工作,"每天至少1000帖,有增无减。"同现实社会一样,在这个水军泛滥的网络世界里,有在媒体上造星的,也有造势的;有街边散发的传单,也有精心策划的事件营销。

  根据中国公共关系网(17PR.com)总经理银小冬的了解,一家公司只要有公关业务的需求,十之八九都会用到网络公关。传统公关公司五年前就开始顺势而变,如今几乎都已配备网络部或网络公关人才。"水军已经成为常态,不用反而奇怪了。"一家门户网站的品牌总监说。

  捧人的时代

  一个个网络名人炒作接踵而来。前有"浪兄"挖掘出的"天仙MM",后有"别针换别墅"。

  曾经开过5年公关公司的覃鹏(化名)是在2005年接到的第一单网络公关业务,当时公司开业两年,主营业务是帮助客户在传统媒体上发稿。

  这一年,中国网民数量突破1亿,各大门户网站和论坛风生水起。覃鹏在见老客户时聊起这些,双方一拍即合。

  这个第一单也完全跟水军无关,仍然是发稿,只不过传播介质从传统媒体延伸到了网络。"当时一些IT、汽车、消费品公司注意到了网络传播的重要性,开始要求本土PR公司在这方面有所投入。"

  不过,覃鹏也注意到在公关业之外,有人开始发掘网络灌水的商业价值。"一些没有网络媒体资源的小公司,通过在论坛灌水,用数量来弥补质量。"

  陈墨在接受南方周末记者采访时,自称是最早使用水军的人。

  2005年,当时还是天涯真我风采版版主的陈墨,给芙蓉姐姐拍照然后置顶,助推了这一标志性网络红人的诞生;转年,他又借助新浪真我版版主身份,一举捧红了"二月丫头",随后走上网络推手的职业道路。

  一个个网络名人炒作接踵而来。前有"浪兄"挖掘出的"天仙MM",后有"别针换别墅"。这些知名推手往往是红极一时的网络写手或版主,他们在台前策划,无名水军在幕后灌水力捧。

  跟陈墨在同一时期当过新浪真我版版主的资深网络营销人、草根时代互动营销公司总经理李海刚选择了不同于覃鹏和陈墨的商业路径――做网络推手,但推的是产品;做网络公关,但靠的是事件策划。

  李海刚至今都为之得意的策划是2006年创造的"奔奔族"这一网络新词――生于1975-1985年、社会压力最大、最热爱玩乐却最玩命工作的族群。这个为长安奔奔牌汽车量身打造的策划,让随后上市的长安奔奔出现排队加价的现象,营收足足4亿元。

  原名杨军的"浪兄",现为尔玛(美国)互动营销CEO。他在接受南方周末记者采访时表示,2008年他策划的"封杀王老吉"事件应该被视为水军形成规模的标志性事件。

  "当时王老吉为汶川地震灾区捐款一亿元,我们接受王老吉的广告代理公司委托,作为促销手段之一,想出了这个方案。我们号召网友,把王老吉买光,来'封杀'它。'封杀王老吉'为企业意外带来了2.6亿元的收入。"

  "网络打手"登场

  从瑞星PK金山,到康师傅优质水源门、新东方教师性骚扰事件等等,事后都或明或暗地被证实为竞争对手所为。

  从2007年开始,除了雨后春笋般冒出的网络公关公司,传统公关公司也开始前仆后继进入更广义的网络公关或网络营销业,并成立网络部。

  中国国际公共关系协会(CIPRA)的数据显示,2008年网络公关业的收益增长趋势稳居整个公关业的冠军宝座,年服务毛收入达到了10亿元人民币。

  2005年,覃鹏公司的传统媒体公关业务和依托网络的业务,比例是八二开。三年之后,这个比例正好掉了个个。

  但在2008年,覃鹏却选择了关闭公司转行。因为他感觉自己变成了一台毫无智慧含量的发稿机器,也因为竞争激烈,成本在不断上升。"从2005年到2008年,几乎翻了一倍,发稿的费用提高了,删帖的比率也在直线上升。"

  但令他想不到的是,水军阵营仍在不断壮大,其链条也逐渐清晰。据"浪兄"介绍,通常客户或自己或委托网络营销公司发任务,"水手长"在接受任务后,就用MSN或QQ将任务批量派发给下游水军。"水军"一般都没有公司,就用私人账号,领到手上的钱,一个帖子就是三毛或四毛。

  为了显得逼真,"水手长"会将任务分为正向意见、反向意见、中立意见,常常让不同的团队去操作,有时可能是十几家,目的是让事情热闹起来。

  当蓬勃发展起来的网络公关公司掌握了怎么捧人推产品、灌水删帖后,其中一些公司和他们的雇主们很快发现,恶意诋毁、攻击对手往往比正面宣传自己更有效,这种手法在非网络时代就已经为一些企业所熟知。

  从早至2006年的瑞星PK金山,到2008年康师傅优质水源门、2009年的新东方教师性骚扰事件等等,事后都或明或暗地被证实为竞争对手所为。原始帖往往都是天涯等论坛上一个许久不用的ID发出,却在几个小时内出现在各大论坛上。他们被冠以"网络打手"的称呼。

  网络打手登场之后,一些公司不得不思量应对之策。一家高科技制造公司的公关总监最头疼的是百度贴吧。因为企业吧出于公平原则,往往不设吧主,几乎无处协调,但百度贴吧里的信息又总是出现在百度搜索的第一页内。"负面信息删不了,那就让无效信息去淹没它。"经业内人士指点,这位公关总监知道了水军可以做"爆吧"的业务,"一个无效的企业吧总好过一个负面的企业吧。"

  直到两个月前的蒙牛事件,"网络打手"式的操作登峰造极,终于惹来司法介入和公众侧目。

  板子究竟应该打在谁身上?

  水军不可能硬生生地制造话题,而是巧妙地利用或迎合公众的趣味。在一个常识匮乏的社会,水军的成功并非偶然。

  11月7日,中央电视台《焦点访谈》报道了水军这个群体,将其定义为"网络流氓、网络黑社会"。

  央视的报道,让建群不到一个月的东洋舰队"司令"顿时萌生退意,本职为网站建设的"司令"以前没做过水军,碰巧同学王海有资源,这个兼职工作又听起来零成本低难度,于是合作建了个群。"司令"担心,将来有一天他的这份兼职工作让他变成违法者。

  "水军的本质是网络民工。"包括"浪兄"在内的所有受访业内人士都在为水军叫冤,"他们是网络营销中食物链最低级的一环,是技术含量最低、挣钱最少、人数最庞大的队伍。"

  网络推手陈墨则认为,水军成就不了任何一个网络热点事件,他们从来都只是个工具。其实从某种角度看来,这话没错,水军不可能硬生生地制造话题,而是巧妙地利用或迎合公众的趣味,如道德裁判、民族主义、普遍的不信任心理、娱乐化倾向等,在一个常识匮乏的社会,水军的成功并非偶然。"如果说水军是演员,那么网络公关就是导演,但真正能左右一出戏的大原则,还是出钱的制片人――公司。"草根时代互动营销公司总经理李海刚更愿意这样来解释"板子究竟应该打在谁身上"这个问题。

  两个月前的蒙牛事件中,伊利举报蒙牛雇用网络打手恶意诋毁竞争对手,蒙牛同样也翻出了7年前的旧账――那一次雇用公关公司恶意诋毁蒙牛的是伊利,只不过当时的战场是传统媒体,事情也并未闹大。寻网络打手的根子,只能去追究长久以来缺乏规则的恶性竞争环境。

  其实,即便不如中国网络水军的手段那么登峰造极,类似的萌芽也出现在拥有成熟商业规则的美国。只不过,从去年开始,美国的监管部门和行业组织就已经开始为此建规立制。

  据《纽约时报》去年8月10日一篇报道称,美国全国广告审查委员会已经建议,企业赞助某家网站或为产品评测付费时,应该对消费者进行明确的披露。发布虚假正面评论的一家整容公司Lifestyle Lift被曝光并检控后,停止了这种行为,并缴纳了30万美元罚款。

  接受采访的网络公关业内人士愿意将蒙牛事件的司法介入视为一个加强监管的有益信号。为了行业的长远发展,他们希望行业不再是可以任意诋毁不用负责的法律空白地带。


AvastがルートキットEraserUtilDrvI10.sys検出した

AvastがルートキットEraserUtilDrvI10.sys検出したと報告してくれてるが、
見てみたら実際はSymantecの共有フォルダーのほうだ。
もしかしたら二つのウィルスソフトの互換性がないかもしれない。
しかし、グーグルしたところあまりネット上情報がない。
とりあえずおいておくか。。。
 
ルートキットが見つかりました
怪しい隠しオブジェクト(ルートキット)がシステム上に検出されました。
これはマルウェアに感染している兆候です。直ちにこのオブジェクトを削除するをお勧めします。
 
ルートキットの情報
C:\Program Files\Common Files\Symantec Shared\EENGINE\EraserUtilDrvI10.sys
ルートキット名:隠しサービス

2010年11月26日金曜日

個人情報保護法令の定めた取得時の公表義務

http://www.caa.go.jp/seikatsu/kojin/houritsu/index.html

第十八条 個人情報取扱事業者は、個人情報を取得した場合は、あらかじめその利用目的を公表している場合を除き、速やかに、その利用目的を、本人に通知し、又は公表しなければならない。
2 個人情報取扱事業者は、前項の規定にかかわらず、本人との間で契約を締結することに伴って契約書その他の書面(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録を含む。以下この項において同じ。)に記載された当該本人の個人情報を取得する場合その他本人から直接書面に記載された当該本人の個人情報を取得する場合は、あらかじめ、本人に対し、その利用目的を明示しなければならない。ただし、人の生命、身体又は財産の保護のために緊急に必要がある場合は、この限りでない。
3 個人情報取扱事業者は、利用目的を変更した場合は、変更された利用目的について、本人に通知し、又は公表しなければならない。
4 前三項の規定は、次に掲げる場合については、適用しない。
一 利用目的を本人に通知し、又は公表することにより本人又は第三者の生命、身体、財産その他の権利利益を害するおそれがある場合
二 利用目的を本人に通知し、又は公表することにより当該個人情報取扱事業者の権利又は正当な利益を害するおそれがある場合
三 国の機関又は地方公共団体が法令の定める事務を遂行することに対して協力する必要がある場合であって、利用目的を本人に通知し、又は公表することにより当該事務の遂行に支障を及ぼすおそれがあるとき。
四 取得の状況からみて利用目的が明らかであると認められる場合

つまり、直接取得の場合は同意書が必要ない。
ちょっと驚いた。

阿Q精神在日本得到翻案

http://blog.creaders.net/zhangshi/user_blog_diary.php?did=73817
http://www.amazon.co.jp/脳内革命―脳から出るホルモンが生き方を変える-春山-茂雄/dp/4763191233

阿Q精神在日本得到翻案 


日本田园都市厚生病院院长春山茂雄1995出版了一本科普读物《脑内革命》,立刻成为排名榜首的畅销书。他的一个基本观点是:人在发生肯定的、乐观的、积极的正面想法时,人脑就会分泌一种对人体非常有利的激素,胜过任何灵丹妙药,可以使人健康长寿;而人在发生否定的、愤怒的、紧张的、消极的负面想法时,人脑就会分泌一种对人体非常有害的激素,可以和最猛烈的蛇毒相匹敌,会使人患重病,几乎所有的成人病都来自这样的精神因素。因此他提倡人们发挥正面的想法,抑制负面的想法。比如说你被会社的社长训斥了一通,你也不要发火忧愁,要想社长训你是为你好,你要怀着一种感谢的心情去挨训,以便发生正面的想法,从脑中分泌出灵丹妙药来。

 

读了这些文字,我不由地觉得我们中国人是最善于"脑内革命"的了。从远古讲,"脑内革命"的创史人应首推庄子。《庄子·外篇·至乐》写道:庄子的妻子死了,惠子去吊丧,看见庄子正蹲坐着,敲着盆唱歌。惠子说:"妻子和你住在一起,为你生儿育女,现在老而身死,你不哭也算了,还要敲着盆子唱歌,这岂不太过份了吗?"庄子说:"不是这样,当她刚死的时候,我怎能不哀伤?可是观察她起初本来是没有生命的,不仅没有生命而且没有形体,不仅没有形体而且没有气息。在若有若无之间,变而成气,气变而成形,形变而成生命,现在又变而为死,这样生来死往的变化就像春夏秋冬四季的运行一样。人家静静地安息在此天地之间,而我还在哭哭啼啼,我以为这是不通达生命的道理,所以才不哭。"

 

从近代说,鲁迅笔下的阿Q也算一个"脑内革命家"。他创造了"精神胜利法",被人痛殴一顿,疼痛未定,心已由怒变喜,因为他确像春山茂雄所说的那样,虽在现实中屡屡战败,但在精神上却认为是"儿子打老子",无论遇到了什么事都作了"积极的、正面的发想",令大脑分泌出许许多多有益健康的激素,令阿Q身体健康,意气飞扬。

 

岂止阿Q是个"脑内革命家",阿Q那个时代的人民也都是"脑内革命家"。在阿Q吃了官司,被押赴刑场,执行枪决时,看热闹的人们像蚂蚁搬家一样成群结队,为他的死而喝彩欢呼。把别人的悲剧、惨剧当作自己的喜剧来观看,在他人的悲惨中获得一种狂喜,令大脑分泌出快乐无尽,受用无尽的美好激素,这是中国的"脑内革命家"特有的"绝技"。岂止阿Q那个时代,就是现在这样的"脑内革命家"也大有人在,常常看到,也经常听说中国人一看到枪毙人就"革命人民拍手称快","鸣放鞭炮表示坚决拥护之心情",用他们自己的话说是"庆祝正义战胜邪恶",而今我却又可以对他们有了一种新的解释:他们堪称"脑内革命家"。

 

鲁迅为了强健中国人的体魄,曾选择了"医学救国"的道路,但面对在任何惨剧面前都山呼"万岁",令大脑分泌出快乐激素的体魄强健的"看客",他绝望地说:这样的人病死多少也不足惜。

 

我不知道鲁迅说得是否过份,但我却觉得所谓的"脑内革命"只能在民主制度和现代法制保证生命本身得到了至高无上的尊重的国度里才能实现,不然的话就会产生无数兴高彩烈、乐此不疲的侩子手和逆来顺受、兴高彩烈的看客,"脑内革命家"们虽然也会有阿Q般强健的体魄,但却不能保证不会有阿Q般的下场。


中国资讯:公务员法

2005年04月28日 09:21:52  来源:解放日报

    公务员法甫一出台,便承载了包括636.9万名公务员在内的全国人民的目光。

    我国公务员实一的职务级别合的工制度公务员定,公务员实行国家一的职务级别合的工制度,国家建立公务员的正常增机制。

    领导因工作重失误应引咎辞务员定,领导因工作重失、失造成重大失或者劣社会影响的,或者重大事故领导责任的,当引咎辞去领导职务领导员应引咎辞或者因其他原因不再适合担任领导职务,本人不提出辞令其辞去领导职务

    务员不得通职"赚外快"公务员法明确定,公务员因工作需要在机外兼批准,并不得取兼职报酬。

    务员退休后,至少2年不得到与原工作业务直接相的企等任务员定,公务员辞去公或者退休的,原系领导的公务员在离三年内,其他公务员在离两年内,不得到与原工作业务直接相的企或者其他利性组织,不得从事与原工作业务直接相利性活

    部法律将自200611日起施行。(夏俊)

科协发布中国公民科学素养调查

中国科学技术协会25日在北京发布中国公民科学素养调查结果称,"十一五"期间中国公民的科学素养水平明显提升,2010年内地具备基本科学素养的公民比例达到3.27%。不过,调查也显示,目前中国公民科学素养水平落后欧盟、日本、加拿大等国家和地区20年之多。

http://news.creaders.net/photo/

  据香港文汇报报导,本次调查从"了解必要的科学知识"、"掌握基本的科学方法"、"崇尚科学精神"等3个方面定量测度中国公民的科学素养水平,被调查者只有同时通过3方面测试,才会被认定为具备基本科学素养。

  逾6成人崇尚科学精神

  经综合测算,2010年中国具备基本科学素养的公民比例达到3.27%。其中,了解必要科学知识的公民比例为14.67%;掌握基本科学方法的公民比例为9.75%;崇尚科学精神的公民比例为64.94%。与此同时,中国城镇劳动者和农民具备基本科学素养比例,分别从2005年的2.37%和0.72%提高到2010年的4.79%和1.51%,对中国公民科学素质整体提高起到重要作用。但这个水平只相当日本、加拿大和欧盟等主要发达国家和地区20世纪80年代末、90年代初的水平。

  这一差距引起广泛关注。中国科协科普部部长杨文志认为,造成这一差距的原因有很多种,主要是中国科普的基础比较薄弱,起步比较晚,公民受教育水平比较低等。但这么多年来,中国一直在追赶这一差距,希望能够加大步伐,逐步缩短与发达国家的差距。

  另外,调查显示,中国公民对科学技术保持积极理性的支持态度,2010年中国有74.8%的公民赞成"科学技术既给我们带来好处也带来坏处,但是好处多于坏处"的观点。

  中国公民支持科技事业并对其充满期望,有77.0%的公民赞成"尽管不能马上产生效益,但是基础科学的研究是必要的,政府应该支持"的说法;有88.7%的公民赞成"科学技术使我们的生活更健康、更便捷、更舒适"的看法。

  科学技术职业声望高

  对职业声望的调查结果显示,科学技术职业的声望较高,教师(55.10%)、科学家(44.02%)、医生(44.02%)排在前三位。对期望子女从事的职业调查显示,教师、医生、科学家位列前三位。

  据了解,是次中国公民科学素养调查于2009年11月至2010年5月展开,共发放问卷69,360份,有效回收68,416份。


美国心烦意乱:在美中国科学家出现“归国潮”

美国心烦意乱:在美中国科学家出现"归国潮"       

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搜狐社区    2010-11-25 17:27:29
       
  在美国国立卫生研究院这家主要的联邦研究中心工作了八年后,细胞生物学家俞立2008年决定是时候回到自己的祖国中国了,回国后他成为了清华大学的一名教授。

  自上世纪八十年代中期以来,大约有八万名在西方学习的中国科学家回国在学术或是行业机构中任职,俞立就是其中之一。咨询机构摩立特集团(MonitorGroup)在周三(11月17日)公布的一份报告中预测,今后十年中这种归国趋势将会加剧,并说这一趋势,加上中国政府和私营企业的大力投资将帮助中国在2020年前成为医药和医疗研究发现领域的领导者。

  据追踪医药行业的IMSHealth,中国目前已经是第三大医药市场,预计到2011年时销售额将增长25%,超过500亿美元。但直到最近,西方仍是该行业中的创新来源地。

  摩立特集团亚洲生命科学业务负责人、上述报告的作者贝德(GeorgeBaeder)说,他认为要引起人们注意的……是世界就要发生改变,中国将在很多方面成为领先者,包括在生命科学的创新上。

  中国正齐心协力希望通过吸引研究人员回国使自己成为一个研究大国。据中国科学院,中国政府两年前启动了一项"千人计划",目标是通过提供资源和资金在未来五至十年内引进2000名科学家。摩立特集团说,这项计划已向符合条件的归国科学家提供了价值人民币1000万元的资源和1000万元的资金。北京还提供了各种其他资金来帮助研究人员和企业家开展工作。

  要达到像美国和欧洲那样的整体研究水平,中国仍然还有很长的路要走,而各种各样的问题将阻碍它的进步。中国依然没有一家研制自身产品的大型全球医药企业。中国的研究领域还存在一些程序上的问题和造假行为,这使得它的研究无法为其他科学家所用。

  贝德说,根本的文化上的转变,比如改变那种主要根据技能水平来提供资金的体系,转而采用道德标准,这对于中国在创新上取得进步将具有重要作用。

  一些美国科学家和官员担心,不易获得联邦研究经费,可能令年轻的科学家对学术和基础科学研究退避三舍。联邦研究经费是美国科学家科研经费的主要来源。

  在中国和其他非美国家理科学生中,美国的大学仍然是世界上最有吸引力的。中国去年超过印度,成为美国高等教育机构最大的外籍生源国,输送学生127628人,较前一年增加30%。

  但在中国理科生完成学业后,要把他们留在美国却是越来越难了。前面所提国立卫生研究院前研究员俞立,就因为觉得中国的科研机会是美国无法比的,所以回到了中国。他的大型实验室拥有众多学生,政府和学校下拨的研究经费事实上没有限制,这使他能够加快研究进度。因此他得以拓宽基础科学研究,并思考怎样把这些研究成果用于神经退化和自体免疫等疾病的治疗。

  俞立说,总之我认为,我们在中国的机会就是更好;在中国,任何事情都有可能。

  华绍炳(S.BenjaminHua)则是在一种创业精神的召唤下,时隔20年后回到中国。他于1986年出国,政府出钱让他在马里兰大学(UniversityofMaryland)攻读博士学位。他说,当时中国国内对于生物医学研究"仅仅是听说过",去美国念书被认为是一种机会,也是一个必须步骤。

  2007年,因为中国这个不断成长的市场存在的创业机会,华绍炳带着他从马里兰大学、加州大学旧金山分校和硅谷生物技术行业学成的知识,回到了中国。

  虽然家人仍在美国居住,自己也是频繁往返于中美之间,但华绍炳觉得自己应该在中国居住,从而更好地理解中国市场,并在这里取得成功。华绍炳去年创办了杭州德同生物技术有限公司(HangzhouAvalonBiosciences)。这是一家专攻传染性疾病和癌症的临床诊断公司,员工规模已扩大到12人。

  华绍炳说,很多同行也在回国。对于很多人来说,在美国的语言与文化障碍意味着他们要付出更多的努力,才能获得美国人那样的成功。他说,回国就消除了这种障碍,另外还有政府的支持,这是很吸引人的。

  华绍炳说,中国的目标是从"中国制造"走向"中国创造"。


2010年11月25日木曜日

服务器名字指示SNI(Server Name Indication)

服务器名字指示SNI(Server Name Indication)


Server Name Indication是用来改善SSL(Secure Socket Layer)和TLS(Transport Layer Security)的一项特性。它允许客户端在服务器端向其发送证书之前请求服务器的域名。这对于在虚拟主机模式使用TLS是必要的。

TLS背景

加密一个面向流的通讯会话最常用的方法之一就是使用TLS协议。比如,当用户在浏览器的地址栏里面输入https时就是在使用这个协议。

为了确认用户想要连接的站点就是浏览器实际连接到的站点,TLS使用包含站点域名的数字签名证书。客户端软件(比如浏览器)通常信任这个证书,如果这个证书是由其内置信任的认证机构签发的。
在TLS启动阶段,客户端软件比较用户输入的URI的域名部分与在服务器证书里面找到的域名部分,如果比较失败,浏览器会提示用户,这个站点的证书存在问题。

缺点

SSL v2的设计顺应经典的公钥基础设施PKI(public key infrastructure)设计,后者认为一个服务器只提供一个服务从而也就只使用一个证书。这意味着服务器可以在TLS启动的早期阶段发送或提交证书,因为它知道它在为哪个域服务。

HTTP服务器开启虚拟主机支持后,每个服务器通过相同的地址可以为很多域提供服务。服务器检查每一个请求来决定它在为哪个域服务。这个信息通常从HTTP请求头获得。不幸的是,当设置了TLS加密,服务器在读取HTTP请求里面的域名之前已经向客户端提交了证书,也就是已经为默认域提供了服务。

因此,这种为虚拟主机提供安全的简单途径经常导致使用了错误的数字证书,从而导致浏览器对用户发出警告。

钓鱼连接

实际上,这意味着每一个HTTP服务器只能为一个域提供安全浏览。而事实上每一个web服务器都为很多域提供服务,结果就是其他的域无法使用安全通信,从而处于危险境地。此外,安全浏览的缺乏使浏览器无法认证服务器,亦即它无法校验站点是否真的是属于宣称它的那个人或实体。钓鱼的一个重要因素是他们企图通过虚假站点来获取用户的信息。使用SSL或者TLS安全连接,浏览器可以基于它的证书来认证站点。钓鱼站点不会作为一个欺骗性的站点得到认证,浏览器会警告这个安全风险。然而,没有安全HTTP就没有标准的方法去认证服务器,使这种钓鱼的企图很容易就能实现。

修正

一个叫做SNI的TLS扩展通过发送虚拟域的名字做为TSL协商的一部分修正了这个问题。这会使服务器更早的切换到正确的虚拟域,并且发送给浏览器包含正确名字的数字证书。

行动

在2005年,人们意识到从SSL v2到TLS没有很容易的升级路径,并且站点不得不升级他们的软件来。为了尽快的推进,Mozilla宣告完全抛弃对SSL v2的支持。Firefox社区确信其余的站点会升级他们的服务器到SSL v3或TLS v1。

从2005年开始,CAcert在虚拟服务器上用不同的方法使用TLS来进行试验,大部分试验是不满意并且不实际的。比如,可以使用subjectAltName在一个数字证书中包含多个域,但是这是一个证书,意味着所有的域必须被一个人拥有并控制,并且每次域列表发生变化,证书必须重新发放。

2004年,EdelKey project为OpenSSL里面的TLS/SNI开发了一个补丁。2006年这个补丁进入OpenSSL的开发分支,2007年,它被向后移植到了OpenSSL 0.9.8,也就是当前的发行版本。

支持状况

支持SNI的浏览器

* Mozilla Firefox 2.0 or later
* Opera 8.0 or later (the TLS 1.1 protocol must be enabled)
* Internet Explorer 7 (Vista, not XP) or later
* Google Chrome (Vista, not XP)
* Safari 3.2.1 Mac OS X 10.5.6

支持SNI的服务器

* Apache 2.2.12 or later using mod_ssl (or alternatively with experimental mod_gnutls)
* Cherokee if compiled with TLS support
* Versions of lighttpd 1.4.x and 1.5.x with patch
* Nginx with an accompanying OpenSSL built with SNI support
* acWEB with OpenSSL 0.9.8j and later (on Windows)

支持SNI的库

* Mozilla NSS 3.11.1 client side only
* OpenSSL
0.9.8f (released 11 Oct 2007) – not compiled in by default, can be compiled in with config option '–enable-tlsext'.
0.9.8j (released 07 Jan 2009) – now compiled in by default
Unreleased 0.9.9 is likely to include SNI compiled in by default.
* GNU TLS

不支持SNI的操作系统,浏览器和库

客户端

* Windows XP and Internet Explorer
* Konqueror/KDE in any version

服务器端

* Microsoft Internet Information Server IIS (As of 2009).

* Qt
* Mozilla NSS
 server side
* Python


クラウドサービスが安いか?

クラウドサービスが安いかという質問はかなり自分の頭の中に響いている。
実際はクラウド型ストレージ「Amazon S3」は安いか?それとも自社サーバ運用のほうが割安?と回答する記事が見つかった。
結論はどっちもない
似合うなら安い。似合わなければ高い。ということだ。

クラウド型ストレージ「Amazon S3」は安いか?自社サーバ運用のほうが割安?


2009/01/09

 Amazon S3は安いか高いかという議論を、この2日間で立て続けに3個所で耳(目)にした。

 1人はネットサービスベンチャーのCTOで、クラウドへの移行を検討しているものの、Amazon S3やEC2の実際の価格や使い勝手がよく分からないという話だった。コスト的に見合うなら、もうサーバ運用に煩わされたくないと漏らしていた。

 もう1つは、ベンチャーキャピタルとして知られるYコンビネーターの掲示板で見かけた「Does Amazon S3 really save money?」で始まる議論。1GB当たり1カ月で0.15ドルと聞くと安いようにも思えるが、1TBの月額は150ドル、2年にすると3600ドル(1ドル92円として約33万円)にもなる。しかも転送量に応じた課金もあるため、実際にはこれ以上になる。今や1TBのドライブ単価は1万円を割っていて、2年で3600ドルとは比較にもならない。「クラウドでコスト削減」というのはお題目でしかなく、ちっとも安くないじゃないかという。

 Amazon S3は安いのかどうかという議論で、私が目にした3つ目は、テックバイザージェイピー 栗原潔氏の「クラウドコンピューティングは安上がりではない」と題するブログエントリだ。栗原氏はクラウドを使っても必ずしもコストを下げられないことを、上に似た計算で示し、今後企業のIT部門ではクラウドとオンプレミス(自社所有)の使い分けポートフォリオが重要になってくると指摘している。

 栗原氏は計算で、単価の高いエンタープライズ・ストレージを想定している。さらに、TCOに占めるハードウェア価格は30%という経験則から逆算し、単なるハードウェア価格だけでなく保有コストを算出、オンプレミス型での1TB当たりのストレージ単価を60万円と概算している。これを5年で償却するとすれば月額1万円となる。つまり割高なエンタープライズレベルの製品を使い、運用コストまで含めても、まだAmazon S3より割安だという。


誰がAmazon S3を使っているのか?


 個人PCユーザーとしてAmazon S3をバックアップ用に使おうと考えたことがある。しかし、まったく非現実的な料金となることが、すぐに分かった。聞き慣れていないために「1GB15円」と聞いてもピンと来ないが、Amazon S3はストレージ容量単価だけから考えれば、ふつうに市場に買えるドライブに比べて非常に割高なサービスなのだ。

 Amazon S3が割高なことは、すぐ分かる。ではなぜ、Amazon S3を歓迎している人々がいるのだろうか? いったい、どういう人々がクラウドサービスを利用しているのか。

 上述した掲示板の議論に登場した写真共有サービス「SmugMug」のCEOで"チーフ・ギーク"を名乗るドン・マカスキル(Don MacAskill)氏が、この疑問に答えてくれているので、彼の体験談を参考に、今後のAmazon S3の可能性を考えてみたい(マカスキル氏の主張は、掲示板からブログエントリや過去の講演用スライドなどをたどれるほか、業界紙のインタビューからもうかがえる)


数百TBのデータをAmazon S3に預ける写真共有サイト

smug01.png写真共有サービスのSmugMug

 2007年の講演資料によれば、SmugMugがユーザーから預かっている写真は1億4000万枚。その192TB分のデータをすべてAmazon S3に置いているという。データ量は年々倍増中というから、現在は300TBを超えている可能性もある。これは、月間7億枚の写真がアップロードされるというFacebookのようなマンモスサイトに比べると小さいが、それでも十分に大きい。

 同社は最初、Amazon S3をセカンダリのバックアップ用途として使い始め、その後に本番用として使うようになったという。プライマリとして使うようになった後も、レスポンスを上げるためにサーバパークの位置をアメリカの西海岸から東海岸に移してみたり(Amazon S3はアメリカに2つ、ヨーロッパに1つサーバパークが計3つある)、トラフィックを抑えて従量課金を安く済ませるためにアクセス頻度の高いデータ(写真)については自社サーバにキャッシュしたりといった工夫を加えていったという。

 独自ファイルシステムの実装によって、アクセス頻度の高いデータは手元の自社運用データセンターから出し、そうでないものはAmazon S3にあるデータを取ってきてから出す、という階層アーキテクチャにしたことで、自社ストレージの台数を95%削減できたという。アップロードされるほとんどの写真は、あまり参照されないため、自社ストレージに置くまでもないということだ。この階層化によりAmazon S3上に全データを保存、そのうちアクセスの多いものをキャッシュとして5%程度を自社サーバにキャッシュするという構成になっているわけだ。

 これはエンタープライズストレージベンダが階層化ストレージと呼ぶアーキテクチャに似ている。企業内のデータでも、ほとんどアクセスされない古いデータが多い。そうしたデータは安価で低速なストレージに(自動的に)落とし、ディスクの回転さえ止めてしまうことで容量単価や消費電力を下げられる。階層化ストレージの分野ではサン・マイクロシステムズがDRAM、SSD、HDDといった物理デバイスの違いを完全に階層化、抽象化する革新的なストレージ・アーキテクチャを昨年末に発表してもいる(参考記事:ZFSでNASアプライアンスをつくるとこうなる


Amazon S3はIDC間のリアルタイムレプリケーションに相当


 マカスキル氏はコスト面で自社サーバのストレージより、Amazon S3に優位性があるという。冒頭に上げた容量単価の計算は、いくつかストレージ運用において重要なポイントを見逃しているため的外れな計算だと指摘する。

 1つはデータの冗長構成についてで、Amazonは地理的に離れた最低2つのデータセンターにまたがって3重の冗長度でデータを保持している。自前で同様のことをするには、RAID構成のストレージを2つのデータセンターに置き、それらの間でリアルタイムのレプリケーションを行う必要がある。

 事業継続性の観点からは最も望ましい形だが、非常にコストがかかるため、このような構成でITシステムを運用しているのは、大企業でも一部に限られるだろう。東京・大阪など2地点間でリアルタイムでデータを二重化するとなると、その帯域費用もかかる。

 Amazon S3のサービスと比較すべきなのは、秋葉原で売られているベアドライブではなく、エンタープライズ向けの中でも比較的贅沢な冗長構成で高可用性を実現するソリューションを組み合わせた"システム"だ。電気代、場所代、運用ソリューションのライセンス料、回線帯域の費用などがすべて含まれた上での価格だと考えればAmazon S3は高いものではない、というのがマカスキル氏の指摘だ。

 マカスキル氏が指摘するもう1つの論点は、時間による容量単価下落の影響だ。Amazon S3のようなサービスなら、ドライブの容量単価が年々下がるにつれて課金が下がっていくと期待できる。アマゾンは、そのときどきで新しいドライブを買い増すからだ。

 栗原氏は計算で、5年というライフサイクルを仮定しているが、例えば今から5年前、2004年1月のHDD価格を見ると、容量120GBのドライブが8000円程度となっている。過去5年で容量単価はざっと10分の1に下がっているわけだ。「18カ月で集積度が2倍になる」としたムーアの法則を当てはめると「2の((5年×12カ月)/18)乗=10.079」と、ムーアの法則が成立していることが分かる。

 5年で容量単価は10分の1に下がる。つまり、5年前の2004年に割安だった120GBのドライブの月賦を、2009年の今になっても同額で払い続けたいか、ということだ。マカスキル氏によれば、実際に過去アマゾンが安価なストレージを買い足した際に、SmugMugに対する請求額が大幅に下がったという(より詳しいAmazon S3のコスト構造の議論は、Amazon Webサービスチームのジェームス・ハミルトン氏が個人ブログで論じている)。

 アマゾンには、不当な利幅を確保できるほどロックインの力もない。いざとなればAmazon S3からデータを引き上げることもあり得るが、その引き上げコストをマカスキル氏は、おおよそ1カ月の課金に相当する程度だと指摘している。

 さらに同氏は、Amazon EC2のインスタンスからだとS3との転送課金が発生せず、両者の相性が良いことや(当然といえば当然だが)、キャッシュフローや税制面からも一度に費用が発生するハードウェア購入より、クラウドの従量課金のほうが有利であることも指摘している。

 これはもう指摘するまでもないことかもしれないが、容量設計が不要でスケールアップが容易という点も、クラウドのような従量課金サービスのメリットだ。特にスケールアップペースが読みづらく、しかも会社の規模の割に桁違いに大きな容量を扱うWeb系ベンチャーではそうだろう。


システム障害は起こるもの


 気になるのはサービス停止などのシステム障害だが、この点についてもマカスキル氏は体験談や考察を述べている(ここここ)。

 2006年4月から2007年1月までの間に、Amazon S3で4度、大きな障害に遭遇したという。最初の2度はコアネットワークのスイッチが落ちるほどの致命的な障害でシステムは15分〜30分間完全に停止し、SmugMugもその影響を免れなかったという(当然SmugMugの有料アカウントユーザーは怒った)。しかしまた、その晩はAmazon.comが落ちていた。確証はないものの、マカスキル氏は、アマゾンは自社プロダクトを自社の本番サービスで使う、いわゆる"ドッグフードを自分で食べる"タイプの企業ではないかとしている。

 過去に4度あった大規模なAmazon S3の障害にうち、残りの2回はサービス停止ではなく、大幅な遅延の発生だった。そのうち1度についてはユーザーが気付くレベルの問題だったが、もう1回のほうは、すでに上に紹介した階層化アーキテクチャを採用していたためにほとんどのユーザーは気付かなかっただろうとしている。

 グーグルも落ちるし、アマゾンも落ちる。オンラインバンキングのようなサイトですら落ちる。100%のアップタイムを持った大規模でスケーラブルな分散システムは、誰が設計や運用をやっても今のところ実現不可能だ。ましてベンチャーの自分たちは、インフラのイノベーションを継続しつつ運用するなど不可能なわけで、「ダウンタイムはあるものだ」と割り切り、コストとバランスして考えるべきだというのがマカスキル氏の論理だ。写真共有サイトという本業に注力し、インフラは世界のトップレベルのグローバル・ネットワーク企業に任せる、という分業だ。


日本から使えるか?


 SmugMugのようなITベンチャーならいざ知らず、アマゾンがクラウドを作り出す試行錯誤に付き合い、それに適したアーキテクチャを設計・実装するようなことは、一般企業のIT部門ができることではないかもしれない(とはいえ、RESTでオブジェクトをGETするだけ。SmugMugがやっているのもオブジェクトのアクセス頻度でそれを場合分けするだけのこと)。この意味ではクラウドで総称される技術は、まだ企業にとってその動向を静観するべきものでしかない。中長期的に見れば、ストレージアプライアンスとして提供される階層化ストレージの一番下のレイヤーに、いつの間にかクラウド上のストレージサービスが加わっていた、という形で企業ユーザーには浸透していくのかもしれない。

 だから、まだアマゾンのクラウドは使いづらいというのは正しい。特に日本からとなれば、アマゾンがアジア向けサーバパークを上海辺りにでも開かない限り、Amazon S3もEC2も遅延が大きいために日本からは使いづらいだろう。ただ、2008年11月にアマゾンが開始したCDNサービス「Amazon CloudFront」(参考記事:アマゾンが従量課金CDNサービスを開始)は、東京にもエッジサーバがあるため、これをS3と組み合わせれば、すでにコスト、パフォーマンスの面で利用すべき用途があるかもしれない。例えば拠点数の多い企業が社内向けの動画配信のインフラとして利用するといったことも考えられるだろう(あまりにも新しいサービスのために、Amazon S3とAmazon CloudFrontの組み合わせの実用性はもちろん未知数だが)。

 Amazon S3に限った話ではないが、クラウドサービスにはプラスもマイナスもあり、冷静に検討すればまったく割に合わないケースも多いだろう。そうした意味で、当初クラウドという言葉を誰もが口にするようになった頃にバラ色の幻想が生まれたとすれば、それは一旦は棄却すべきだ。しかし、本当の意味でITを活用しようという利用者なら、そろそろ日本からでも実験を始めてもいい時期だ。